「お前がHAYATOの弟というのは本当か?」
唐突に投げかけられた問いにトキヤは眉根を寄せ、不快感も露に声の主を見返した。



未だ蕾のヘリオトロープ



私が、彼に初めて会ったのはこの学園に入学する前のオリエンテーリングの時だったと思う。
大抵の人は、私のこの顔を見ると驚いて声を失い、穴が空くのではないと思うほどにこちらを見つめてくるものたちばかりだった。
驚くだけならば良いのだが、大体がそこに、お前はHAYATOなのか、サインをくれ、に始まり挙げ句の果てには頭の悪い妙なやっかみや嫌みまでもが付随してくる。
HAYATOの双子の弟だと言っても、それは変わらない。頭の先から足下までじろじろと見られ、好奇と猜疑の視線を浴びせられる。
この道を選んだのは自分の意志であり、この程度のことなど予想の範囲内であったが、それでも、慣れることはあっても決して良い気はしない。
好奇の視線に晒されて誰が嬉しいと思うものか。
そんな中で、彼、聖川真斗は初対面の時ですら、そのような不躾な視線をこちらに向けることもなければ、HAYATOという言葉すら口にはしなかった。
彼は他の人間とは違う、とトキヤは一目置いていたのだ。
もちろん、彼がHAYATOという存在を知らなかったということもあり得るのだが。
彼もまた、聖川財閥という世界でも指折りの財閥の御曹司であり、しかも嫡男であるという。有名人といえば、彼も似たようなものだろう。同じような目にあったことがあるのかもしれない。
彼は寮で同室の音也のクラスメイトであり、また、友人であるレンと寮の同室といこともあって顔を合わせる機会は何度かあったものの、別段こちらから話しかけるような用事もあるわけでもなく、挨拶を交わす程度でまともな会話をしたことなどなかった。
その聖川さんに呼び止められたのは、授業の合間の移動時間であった。
この学園は広い。それ故に移動時間も他の学校とは違い、長く設けられている。
彼の側に、いつもは共に行動している音也たちがいないところを見るに、もしかしたら私を探していたのかもしれない。
走ってきたのか、少し、呼気が乱れている。
珍しいこともあるものだ、と立ち止まり、どうしたのかと思えば、先の問いだ。
辟易しないはずがない。

「…それが何か?」
不機嫌さを隠しもせずに、低い声で問い返す。
「ああ、HAYATOの弟ということを見込んで頼みがあるのだが、」
「お断りします」
強い口調で真斗の言葉を遮って、話を強制的に終わらせる。
彼は他のミーハーな奴らとは違う、そう思っていただけに、どうしようもなく失望感が沸き上がった。
「…そうか、ならばいい。呼び止めてすまなかったな」
しかし彼はトキヤの強い口調に気を悪くした風も見せず、ましてやがっかりした様子もなく、そう言って踵を返した。
あっさりと引き返す真斗に些か拍子抜けしてしまう。
HAYATOのサインが欲しいだとか、そういう頼み事ではなかったのだろうか。
「…まあ、出来る出来ないは兎も角として、聞くだけならば可能ですよ」
遠ざかってく真斗の背中に思わずそんな言葉を掛けると、本当か? と喜色を浮かべた表情で真斗が振り返った。
「実はな、俺の妹がHAYATOが出ている番組を毎朝欠かさず見ていてな、」
ああ、おはやっほーニュースですか、と胸裏で思いながら、トキヤは真斗の言葉に耳を傾ける。
「そこで、妹の送った質問の内容が取り上げられたらしいのだ。それで、礼を、と思ってな」
「そうですか。そのくらいでしたら可能ですよ、伝えておきましょう」
そう言うと、すまないな、ありがとうと真斗が笑った。
「…それと、俺からもひと言、悪かったと伝えてくれ」
「聖川さんが? …何故?」
「実は、真衣に…妹にライオンが猫の親戚だと言ったのは俺なのだ」
俺はあの番組は見ていなかったのだが、どうやら危険な目にあわせてしまったようでな、本当にすまなかった。と目を伏せる。
「それは番組の構成でしょう。きっと人に慣れたライオンを使っているでしょうし、聖川さんが気に病むことではありませんよ」
出来るだけ安心させるように柔らかな声音で言うと、それならば良いのだが、と真斗が再び笑みを浮かべた。

思った以上に良く笑う人だ、と思う。
彼と顔を合わせるのは殆どがレンや音也といる時なのだが、どういうわけかレンは彼に異常なまでに対抗心を燃やしている。そして彼も彼でそれに応酬するため、怒ったような、呆れているような表情しか見たことがなかった。
彼はこういう優しげな表情もするのかと目を見張る。
「…一ノ瀬、どうかしたか?」
不意に顔を覗き込まれて、らしくなく狼狽えてしまった。
いえ、なんでもありません、と努めて平静を装って答えると、そうか、と彼がまた少し笑った。
「…こうしてお前と話すのは初めてだな」
そして、少しだけ言い淀んで、真斗が口を開く。
「その、…お前はもっと無表情なのかと思っていたのだがな、思いの外、良く笑うのだな」
「…私が?」
笑っていましたか? と問えば、そう見えたが、と返事が返ってくる。
今まで、無表情だとか感情が見えないということを言われたことは数多あれども、良く笑うなどと言われたことは初めてだった。
そういえば、初対面で私のことを見てHAYATOの話を出さなかったのも彼くらいなものだ。彼は他の人間と見えているものが違うのだろうか。
彼のことは、初めて見た時から少し気になっていたのも事実で、恐らく、自分とは似た種類の人間なのだろう、と感じていた。
きっと彼とならば話が合うかもしれない。
気を張ることもなく、自然体でいられる、そんな気がした。
このまま立ち去るのは惜しい気がして、会話のきっかけを探してみるが、そうこうしているうちに、校内に予鈴が鳴り響いた。
「ああ、もうこんな時間か」
引き止めてしまってすまなかったな、と真斗が腕時計に目を落とす。
「今度はゆっくりと話をしよう。お前とならば良い時間が過ごせそうだ」
再びこちらに顔を向けて真斗が笑う。耳障りの良い落ち着いた声が心地良い。
「ええ、そうですね。楽しみにしています」
笑みを浮かべながら言うと一瞬だけ彼が瞠目して、またすぐに破顔する。
「ああ、俺も楽しみにしている」
そう言って踵を返し、彼は来たとき同様、足早に去って行く。
きれいに伸ばされた背を眺めながら、トキヤは胸にえも言われぬ温かなものが広がってゆくのを感じていた。
見上げた空はいつも以上に青く、眩く見えた気がして、手を額に翳す。
「ぼんやりしている場合ではありませんね」
零れ落ちた呟きすらどこか甘い。
その頬に、薄らと笑みが浮かんだことすら気がつかぬまま、トキヤは再び歩き出した。