週刊誌の見出しに一ノ瀬の名前が載ったのはつい先日のことだ。
正しくは一ノ瀬が以前名乗っていたHAYATOの名の方が大きく打ち出されていたが、HAYATOと一ノ瀬トキヤが同一人物であることは周知の事実である。
雑誌には複数の男に組み敷かれてそれでも尚笑う男の写真。そして、仕事を得るために多くの業界関係者と身体の関係を結んでいたのだという内容の記事が僅か2ページ程度。目玉の記事という訳でもない。
それでもスキャンダルには変わりはなく、事務所にもメンバーにも緊張が走ったが、週刊誌に載っている写真は携帯のカメラで撮ったのだろう、画像が荒くて顔なんて判別出来るものではなかった。ぼんやりと表情が分かる程度だ。
だから、社長はそれを一ノ瀬ではないと断言していたし、他の皆は他人の空似だとか、合成ならもっと上手くやれだとか、安堵故なのか随分と好き勝手言っていたものだ。
それに、下賎な記事ばかりを載せ、訴訟をいくつも抱えている出版社であったからか、それとも一ノ瀬自身の知名度がまださほど高くなかったためか、世間にはさほど注目されなかったようだ。
けれど、俺には胸騒ぎにも似た予感があった。
その写真は恐らく本人なのだと思う。ずっと、一ノ瀬を見てきたから、そう思う。出来れば間違いであって欲しいのだが。

一ノ瀬の名前が印刷された週刊誌が世間に出回ってから、俺は一度も一ノ瀬に会っていない。
一ノ瀬は社長の計らいでマスコミ除けと称して寮とは別の場所に隔離されていた。仕事もそこから向かっているらしい。何度か電話を掛けてみたが、電源が入っていないのか、電波が届かない場所にいるのか、一度も繋がらなかった。


一ノ瀬と俺は、所謂、恋人という関係だ。想いが通じ合ってからもう少しで半年。
身体の関係は、まだ、ない。

学園在学中からその才能と外見と、そしてHAYATOと瓜二つの双子の弟ということで何かと目立っていた一ノ瀬は、俺の憧れでもあった。
同じクラスの友人や寮で同室だった男を通して接点はあったものの、クラスが違うことや、お互いあまり積極的な性格ではないこともあって、親しくなることはなかった。
それが変わったのは、学園卒業後シャイニング事務所の寮に移り住んでからのことだ。
寮で俺と一ノ瀬は隣同士になり、お互いに自炊をするものだから、共に食事を作ったり、お裾分けと称して料理の交換をするうちに、急速に距離が縮まっていった。それに、お互い役者として声をかけられることが多く、同じドラマの学生役に抜擢されるということも幾度かあって、学園にいた頃よりも格段に接点が増えた。空いている時間があれば台本の読み合わせをし合ったり、そんな風に穏やかにふたりの時間は流れていった。

想いを告げたのは彼の方からだった。曰く、初めて見た時からあなたのことが気になっていた、と。
それはこちらだって同じだ。彼のような尊敬できる人間に惹かれないはずがなかった。それが、恋慕なのか、ただの憧憬だったのか当時は曖昧だったが、一ノ瀬と近しい存在になれることが何よりも嬉しかった。そして、それが答えなのだと気がつくのにさほど時間は掛からなかった。
それから彼の視線に熱が帯び、好きです、と告げる言葉には艶が含まれ、触れる機会が増えていった。けれど、その先には未だ進んでいない。俺はこんな性格であるし、何より、一ノ瀬がそれを避けているような素振りがあって、俺はその先の一歩を踏み出せないままでいたのだ。
けれど、それでも良かった。彼と過ごす時間は、酷く心地良かったのだから。

   ◆ ◆ ◆

隣りの部屋のベランダから光が漏れていることに気がついたのは、それから数日が過ぎた夜のことだった。
訪ねようかどうしようかと考えあぐねているうちに、足は自然に一ノ瀬の部屋の前に向かっていた。
送ったメールは届いているだろう。几帳面な一ノ瀬はメールを送れば遅くなっても必ず返事をくれるのだが、未だ返事は来ていない。精神的に疲れているのかもしれない。あの記事が本当のことなのかどうかは置いておいても、あのような下賎な記事に自身の名前が載るのは到底気分のいいものではない。
一ノ瀬はいつも気を張っていて人に弱いとこを見せることはないのだけど、時折、俺の前では子供のように振る舞うことがあった。決して狭くはない部屋の中で、常に身体が触れるほどの距離にいて、我がままを言って甘えてくるのだ。その我がままも俺を困らせるようなものはひとつもなく、本当に些細な、言うなればこちらを試しているような、そんな可愛らしいものばかりだった。
始めは普段の彼との落差に驚いたりもしたが、それが即ち信頼の裏返しだと思えば嬉しくないはずがなかった。
そんな一ノ瀬がひとりで辛い想いをしているのではないかと思うと気が気ではなかった。少し、一人になりたいのかもしれないということは頭を過ったが、意を決して隣りの部屋のチャイムを押した。
部屋の中から一ノ瀬が出てくるまでの時間が異様に長く感じられる。やはり来るべきではなかったのではないかという思いは、玄関の重いドアの向こうから、少しだけ驚いた彼が平素と変わらぬ微かな笑みを浮かべた表情で出迎えてくれたことで拡散して消えた。
「夜分にすなまい。ベランダから、光が見えたので、ついな、」
「いいえ、私もあなたに連絡しようかと思ってたところです」
こんなところではなんですから、どうぞ、と促されるように部屋に上がる。相変わらず一ノ瀬の部屋はきれいに片付いている。慣れた部屋は少しだけ俺を安堵させた。

部屋には陶器がぶつかる小さな音だけが響いている。
俺の目の前には温かな湯気を立てる湯のみ、そして、隣りには香ばしいコーヒーの香りを纏う一ノ瀬。
いざ、こうして一ノ瀬と会ってみたが、何も言葉が出てこなかった。何か言わなければと思うほどに頭の中から消えてゆく言葉たち。こういう時あの男ならばなんと言葉を掛けるのだろうか、とかつて寮で同室だった男を思い浮かべてみたものの、あの男の考えていることなど当時から分からなかったではないかと、胸裏で溜め息を吐く。
「何も、言わないんですね」
そんな沈黙を破ったのは、一ノ瀬だった。
「社長から箝口令が敷かれている。外部にも、一ノ瀬本人にも何も言うな、とな」
「…そうですか」
溜め息を吐くように零された言葉は安堵のためか、それとも。
「…聞いて欲しかったのか?」
ソファの隣りに座る一ノ瀬がぴくり、と小さく肩を揺らす。
ずるい聞き方だ。こうして彼の出口をひとつずつ塞いで、そうして、自分以外へ向かう出口を閉ざして俺は満足するのだろうか。
再び無言が辺りを支配していた。身じろぎすることも躊躇われるような無音の中で、彼が小さく息を吐き出す音がした。
「私は、あなたのことが好きです。だから、あなたに隠し事をするのは辛い」
静かに吐き出された言葉に、身体が強ばるのが分かった。その先は聞きたくない、そう思うのに、無情にも彼は言葉を続ける。
「あなたは、気づいているんでしょう?」
何を、とは言わなかった。けれど、それだけで十分すぎるほどに意味を理解する。
あの写真も記事も本物だったのだと。
「私を、軽蔑しますか?」
一瞬だけ絡んだ視線はすぐに逸らされてしまった。何か言おうと口を開きかけたものの、何も言葉は出てこず、代わりに言葉を発したのは一ノ瀬だった。
「私には、歌しかなかった」
何の感情もない、凪いだ湖面のように静かな声音で彼がゆっくりと話し始める。

私の家のことは以前にお話ししたでしょうか。
私の母は教育熱心でして、無論私も歌うことや演じることが好きでしたから芸の道へ進みたいと思っていたので自ら進んで稽古やレッスンに通っていたものです。
そうすれば、幼心に緩やかに離れてゆく父と母の心を繋ぎ止められると思ったんでしょうね。
結局、私の習い事に関してふたりは度々言い争うようになりましてね、私が小学校を卒業する前に両親は離婚しました。
それから、母は私を一人前の役者にしようと以前よりも熱を入れまして、中学校へあがるのを機にたったひとりで上京しました。
大手の劇団に所属した私は、そこそこ仕事も頂けまして、とは言っても名前も台詞もないような端役ばかりでしたが、それでも、夢に一歩ずつ近づいているようで嬉しかったですね。下手だった歌も少しずつうまく歌えるようになってきて、歌の仕事も僅かではありますが貰えるようになって、朧げだった将来をしっかり見据えられたのはこの時期だったと記憶しています。
それから、早乙女さんも早くから親元を離れた私を心配して、時折様子を見に来てくれたんです。私が役を貰えたのは彼の影響もあるのかもしれません。この業界は実力だけでなく、運も必要だと言っていましたから、私は運が良かったんでしょうね。今でも彼には本当に頭が上がりません。くだらない行動には閉口しますが。

がらりと環境が変わったきっかけは、やはりHAYATO、でしょうか。
一番組のキャラクターとして作られた彼が思いの外人気が出て、私はHAYATOというキャラクターのまま引き抜かれて別の事務所に移籍することになりました。
始めは楽しかったんです。自分とは正反対の人間を演じていることにも、他の誰でもないHAYATOが必要とされていることも。
けれど、事務所が必要としていたのはHAYATOという作られたキャラクターであって、一ノ瀬トキヤという人間ではなかったのです。そのことに気がついてから、常に求められるHAYATOというキャラクターに次第に重荷を感じるようになっていきました。HAYATOでいる時間が長くなればなるほど、一ノ瀬トキヤという人間が消えてゆくような錯覚すらありました。
そんな私が唯一、一ノ瀬トキヤを表現できること、それが歌だったのかもしれません。けれど、来る仕事はバラエティーばかりで、次第に歌も歌わせてもらえなくなりました。
辛かった。
HAYATOを演じ続けることも、歌を歌えないことも。
けれど、母の期待を、いや、母の人生といっても良いでしょうね、そういったものを一身に背負って、それに応えようとしていた私には、辛いから実家に帰りたいなんてことは言い出せませんでした。

そんな頃の話です。
物好きな輩もいるものですね。
歌を歌いたかったら、取引をしないかと、そう持ち掛けられました。
私は、その誘いに乗りました。表面上は私に選ばせるような問い方ですが、その実、脅迫です。元より、断るなんていう選択肢は新人の私にはありませんでした。
私には歌しかなかったんです。
けれど、その歌さえ歌う場所もなくて。
そのためには、なんだって出来る、何を犠牲にしようとも夢を諦めたりはしない、とそう考えていました。

それからは坂道を転がり落ちるが如く、ですね。
話が広まるのは早いもので、同じようなおかしな趣味をした人間が何人も私のもとを訪れました。 初めこそ辛くて悔しくて、自分が情けなくて、行為の後に戻したことも一度や二度ではなかったのですが、人間というのは良く出来ているものですね。人が環境に適応するように、次第に慣れていきました。逆に繰り返す行為に慣れて勝手に快楽を拾い上げる程度に身体は馴染んでいましたから。HAYATOのまま喘ぐことも、彼らしく強請ることも覚えました。それも演技の一環なのだと思えば耐えられました。
もう、この頃になると辛さも何も感じなくなっていたと思います。既に心が外部からの情報を閉め出していたんでしょうね。今まで楽しいと思っていたことも何もかもつまらなく思えて、すべての感覚が仄暗い水中にいるように薄ぼんやりとしていたような気がします。

恐らく、早乙女さんは知っていたんでしょうね。
HAYATOを演じ続けることに限界が来ていたことも、私がそんな汚い手段で仕事を手に入れていたことも。
だから、彼が見かねて早乙女学園で一ノ瀬トキヤとしてやり直さないか、と声を掛けてくれた時は、本当に、冗談ではなく、彼の後ろに後光が射したように感じたんです。

それからは、あなたもご存知の通りです。
私はHAYATOの双子の弟と偽り、一ノ瀬トキヤとしてデビューすべくこの学園に入学し、紆余曲折ありましたが漸く私はHAYATOから卒業することができたのです。
あれから、何度かスタジオで彼らとすれ違いましたが、声を掛けられることはありません。いやらしい目で見られることはありますけど、私がシャイニング事務所に移籍したことと、早乙女さんの影響が大きいのでしょうね。この業界で早乙女さんに逆らうような命知らずはいませんから。
しかし、もうあの悪夢のような日々から抜け出せたと思っていたのですが、まさか、あの頃に記憶にこんなにも悩まされるとは思いもしませんでした。

…正直、あなたには、知られたくなかった。
あなたの中の私はきれいでしょう?
騙すつもりはなかったんです。でも、もう少し、あと少し、あなたの中ではきれいなままでいたかった。そんな風に思っていたらこんなにも時間が経っていました。駄目ですね。
あなたが口にする私の名はとてもきれいで、私はその度に胸が痛くなりました。あなたの美しい声で私の名を呼ばれたかった。あなたの声で私が何も知らなかったあの頃に戻れるような気がして。そんな筈あるわけないのに。


滔々と流れるように独白する彼の言葉はどこか遠くて、終止まるで知らない人間のことを語るような口調だった。そうでないと彼の心が耐えられなかったのかもしれない。
彼がゆっくりと己のことを語る間、一度も視線がかち合うことはなかった。一ノ瀬はまるでそうすることを恐れているように、俯いてぼんやりと手元に視線を投げている。
一人前の大人として形成する前の多感な時期に受けた傷は、歪なまま傷を塞いで、こうして彼を苦しめている。
ただ、こうして無言のまま話を聞いてやることしか出来ない己が、酷く無力で、もどかしかった。

「どうです? 私はこんなにも汚い人間です」
それでも、私を愛してくれますか?
そんな声にならない問いが確かに真斗には聞こえた気がした。
掛ける言葉など持っていなかった。
自分自身の境遇も決して楽ではなかった。確かに生活面や金銭面では恵まれていただろう。しかし、真斗には世間一般の家族というものに憧れがあった。優しい両親がいて、食卓では笑顔が絶えず、休日になれば公園で家族で過ごす。そんなありふれた家であったなら、と自らの境涯を恨めしく思ったこともあった。けれど彼はどうだ。互いの生きてきた道を比べて優劣をつけることなどナンセンスかもしれないが、それでも、自分は彼に比べたら随分と甘いところにいたのだと思う。
彼が悲しみを隠してHAYATOとして笑っていたことも、一ノ瀬トキヤとして穏やかに笑う顔も、すべてが痛々しくてたまらなかった。
同情、と言われてしまえば、そうなのかもしれない。
けれど、少しでも彼が苦しみから抜けられればいいと、思わずにはいられなかった。
「一ノ瀬」
名を呼ぶと、彼の肩が大げさなほどに揺れた。
近づくと同じだけ距離を取って遠ざかる身体を引き寄せて抱きしめる。細身だけれど、決して華奢という印象がない彼の肩がとても小さく思えて掻き抱いた。
「辛かったな、よく頑張ったな」
もう、何も心配することはない。俺も、社長も、他の皆もきっとお前のことを軽蔑したりはしないだろうと、そう言おうとして、口を噤む。
こうして抱きしめて、もうお前は大丈夫だと、過去に何があっても、お前はお前だと、そんなお前がすべて愛おしいのだと。 伝えたいことは山ほどあった。
けれど、どんなに言葉を重ねても、微温湯のような場所にいた俺の言葉など、きっと彼には薄っぺらな言葉にしか聞こえないだろう。
「愛している」

結局口にした言葉は、ただそのひと言だけだった。 何も伝えられない代わりに、これ以上ないくらいに引き寄せてきつく抱きしめれば、背に一ノ瀬の腕が回る。息が苦しくなるほどに抱き締められて、その肩が小さく震えていることに気がついた。すん、と彼が鼻を鳴らす音がして、俺はそっと、その癖のある黒髪に指を差し入れた。

一ノ瀬の歪んだ傷はきっと消えることなどないのだろう。傷が塞がって瘡蓋になって、それが剥がれ落ちても、ずっと痕が残るような深い傷。俺は、その傷痕をそっと撫でることしか出来ないのだけれど。
いつか、一ノ瀬がその傷跡すら自分自身だと言えるその時まで、俺はこうして側に居よう。
古傷が痛む日もあるだろう、新しい傷を重ねることもあるかもしれない。けれど、一ノ瀬が穏やかに笑ってくれるのならば、そのために自分に出来ることは何だってしたいと思うのだ。

どうか、彼に幸多からんことを。





(そうして、出来ることならば、俺が、お前を幸せにしたい、と――)