絵の具で塗り潰したような紺色の空には、欠けた月と今にも落ちてきそうな糠星が瞬いている。
凍えるほどに寒いこの季節。吹く風は身を切るほどに冷たく、わずかに露出している肌から温度を奪っていく。この辺りではまだ雪が降るような時期ではないが、それでも寒い。
けれど、真斗はこの季節が好きであった。
ひんやりとした空気は心地が良い。背筋が伸びるような清々しさがあって身が引き締まるような気がして好きなのだ。
そして、空気が澄んでいるこの時分は星空がより綺麗に見える。今もそうだった。
郊外にあるシャイニング事務所寮は、時折少し不便だと思うこともあるけれども、都会の喧噪に煩わされることもなければ、ちかちかと存在ばかりを主張するような眩い光も届かない。こうして星空を見上げるにはうってつけだった。


ベランダで星を見ませんか、とトキヤに誘われたのはつい先ほどのことだ。
事務所の寮が隣同士という気安さもあって、少しでも互いの時間があえば、こうしてどちらかの部屋で過ごすのが常となっていた。そうは言っても、ありがたいことにお互い忙しい日々を過ごしていてその機会はあまりない。だから、こんな風に彼とふたりきりで過ごす穏やかな時間は貴重だった。
この時期だからだろうか、寮の他の部屋のベランダに誰もいないのを良いことに、こっそりと手をつなぎながら身を寄せあうようにして空を見上げていた。
トキヤの手はいつも少しだけ冷たかった。それは今のような寒い時だけではなく、夏の一番暑い時期でさえそうなのだから、元々体温が少し低いのかもしれない。自分の熱が移れば良い、と強く手を握れば、同じように握り返される少しだけ冷たい温もりに愛しさが募る。

「時折、こうして空を見上げているんです」

言葉通り、空を見上げながらトキヤが不意に口を開いた。
ふたりの目の前に広がる夜空には、無数の星々が散りばめられていて、そのひとつひとつが遥か彼方にあるものだ。気の遠くなるような時間を経て、あの光が今ここに届いている。もしかしたら今見ている瞬間にはもう既に消えてなくなってしまっているのではないかと思うと、きれいなはずの星空も少し怖いくらいだった。

「あなたと見たかったんです。多分、私の見ているものが、あなたにも同じように見えているような気がして」

ふたりで見れば、今にも降ってきそうな星空も怖くないですね。と言うものだから、思わず吹き出してしまった。本当に同じことを考えていたのかと思うと、少し嬉しくもある。
彼も同じことを考えているのだと思えば、これから先、ひとりで空を見上げていても、あの星空も輝く欠けた月も、きっと今と同じくらい美しく見えるに違いない。そんな甘やかな空想に笑みが零れる。

「ああ、美しいな」
「ええ、本当に、月がきれいですね」

その声に振り向けば、まっすぐにこちらを見遣る目と視線が絡んだ。
月なんて見ていないではないかと思ったが、それは恐らく額面通りの意味ではない。
乱読家の彼ならば間違いなく知っているだろう。そして、そんな彼は、裏の意味を含ませずにその言葉を口にすることなどないに違いないのだ。
ならば自分はなんて答えるべきかと思案する。その間にもこちらを眺める視線は相変わらずで、少しだけ居心地が悪い。
多分、返事をするならば、あの言葉だろうということは見当がついていた。けれど彼の思惑通り、死んでもいい、などと言うのは少し、気が引けた。
こちらを見つめる期待に満ちた目は、俺が意味を理解したのだということも見透かしているのだろう。時折、こういうところが悔しいと思う。別段何か競っているわけではないのだが、いつもいつも一枚上手な彼に翻弄されっぱなしでは面白くない。

「ぽっかり月が出ているぞ」

苦し紛れにそう答えると、こちらの意図通りに意味を解釈したのだろう、彼は先ほどよりもいっそう笑みを深くする。

「ありがとうございます」

近づいてくる顔を静かに待って、目を閉じる。唇に触れるそれも、掌と同じように少しだけ冷たかった。
甘やかな音を残して離れてゆく整った顔は、相変わらず笑みを浮かべている。

「月が聞き耳を立てているかもしれませんね」

声をひそめて、内緒話をするようにすぐ耳元で囁かれ、その生暖かい吐息のくすぐったさに笑う。
やはり、彼には敵わない。

「構うものか」

彼の首の後ろに手を添えてそのまま引き寄せる。互いの熱が馴染んで同じになる頃には、お互い息が弾んでいた。その性急さに顔を見合って笑う。そうしてまた唇を合わせた。その繰り返し。

気がつけば、月は視界から消えて見えなくなっていた。
けれど、たとえ月のない空だとしても、いつだって俺は迷わずに彼の元へと行ける。
そんな気がした。