「頼む、一ノ瀬、お前だけが頼りなんだ」

いつも自分の前では優しくて穏やかな彼女が、目の前で何度も頭を下げる。こんなにも必死な姿は今まで見たことがなかった。いつも助けてもらっている彼女の力になりたい。そう思っていたし、実際そう口にしたことは幾度もある。
けれどこればっかりは駄目だ。

「駄目です。できません」

何度目かの断りの言葉を口にする。けれど、彼女は諦めない。もう既にこの遣り取りは何十回と繰り返されている。
「本当に頼む。こんなこと、お前以外には頼めないんだ」

お前だけが頼り、お前以外には頼めない、彼女の中で自分だけが特別だという耳障りのよい言葉たちは、トキヤの自尊心を満たすに十分だった。
頼まれている内容だってトキヤに出来ないことでもないのだ。何より他の男だったら喜んで手を貸すだろう。本音を言えば自分だってやりたい。だけどこうして断り続けているのはちょっと世間と感覚がずれている箱入り娘の身を案じているからに他ならない。もしも頼まれているのが自分でなかったら、と思うと空恐ろしい。

「方法ならばいくらでもあるでしょう?」

それこそインターネットでちょっと調べるだけで、多くの情報が手に入るだろう。

「だが、私は、この方法しか知らぬのだ…」

苦渋の表情で唇を噛む彼女。眉根を寄せた顔も美しいのだなと目を奪われるが、やはり自分は笑っている顔の方が好きだ。もちろん、今すぐにでも笑顔にさせたい。
結局は折れるのは自分なのだ。

「では、ネットで一緒に調べてあげますから、自分を粗末にするようなことはやめなさい」
「調べてくれるのか! それはありがたい! 実はインターネットとやらが良く分からぬのだ」

花が咲くように笑顔を見せた彼女に、トキヤも漸く口元に笑みを浮かべた。けれど、彼女の続く言葉に再び閉口することになる。

「しかし、自分を粗末に、とはどういう意味だ?」

首を傾げて問う姿は歳よりも幼く見えた。確か自分と同い年のはずだが、なぜか幼い子供を相手にしているような錯覚に陥る。

「分からないのなら結構です」

呆れ口調のままそう言ったものの、早く分かってもらわなければ、とも思う。
こんなにも無防備な彼女がこの先、悪い男に騙されたりしてはいけない。どうしたって傷つくのは女性である彼女の方なのだから。

日中の一番暑い時間帯を締め切っていた部屋は、ドアを開けると同時に生温い空気を吐き出した。
こうして彼女を部屋の招くのは今回が初めてではない。勝手知ったる振る舞いで部屋にあがった彼女は、音也が不在であることに些か落胆したようだったけれど、それと同時にどこかほっとしているようでもあった。
ノート型のパソコンを起動して、ブラウザの検索窓にキーワードとなる単語をスペースで区切って入力し、エンターキーを押す。すぐに画面は切り替わり、ずらりと並んだ検索結果をふたりで身を寄せあうようにして眺める。

「バストアップストレッチ、というものがあるのか?」
「みたいですね。…見てみましょうか」

彼女が目に留めた青い文字をクリックする。するとすぐにまた画面が変わり、幾枚かの写真とその解説が表示された。
何が悲しくて男の自分が胸を大きくする方法を調べているのだろうか、と気を抜けば零れそうになる溜め息を飲み込んで、代わりに小さく息を吐く。彼女の頼みなのだから仕方がない。何でもひとりでやろうとして、ともすれば、ぎりぎりのところまで頑張りすぎてしまう彼女の頼みごとは無下にはできないのだ。ただし、あれだけはどうしても駄目だ。

「そうか、他人に揉まれるだけが大きくする方法ではないのだな」

しみじみと呟いた彼女に、我慢していたはずの溜め息も思わず零れ落ちた。

「そうですよ、金輪際そんなこと人に頼んではいけませんよ」

彼女が思いつめた表情でトキヤの元に来た時には、一体何があったのかと酷く慌てたものだが、その小さな口から飛び出してきた言葉はトキヤの予想を遥かに超えるもので、恥ずかしながら暫く思考が停止してしまったほどだ。あんなことを言われてよく正気が保てたものだと我ながら感心する。

「そうだな。胸を揉んでくれなどという嫌な役回りを押し付けようとしてしまってすまない」
「嫌では、ないですが。……あなたは女性だということをもっと自覚なさい」

口をついて出た本音を咳払いで誤魔化して、取り繕うように低い声でたしなめるように言うと、彼女が再び、すまない、としょんぼりと肩を落とした。

「それに、どうして私なんですか? 同じ女性の七海君や渋谷さんに頼めば良いものを」
「あのふたりは、駄目なのだ」

何故です? と視線を向ければ、彼女は俯いて言いづらそうに口を何度か開閉して、そうして消え入りそうな声で呟いた。

「あのふたりは、その、大きい、だろう…? だから恥ずかしいのだ」
「私は男ですよ?」

普通、同性に見られるよりも異性に見られる方が恥ずかしいのではないだろうか、ましてや見られる以上にハードルが高いことをするというのに。

「知っている。だが、他に頼めるものはいないし、何よりお前はからかったりすることもなく親身になって話を聞いてくれるだろう?」

現に今だって、胸を大きくする方法を一緒に調べてくれているではないか、と真摯な表情で言う。
彼女はきっと、人が誰かに親身になるのは理由があるのだということを知らないのだ。もちろん、そうでない人もいるだろう、誰に対しても変わらずに優しい彼女がそうであるように。けれど、私は違う。どうでも良い人間には手を貸そうなどとも思わない冷たい人間なのだ。つまり、彼女に優しくするのは、彼女の前で自分を良く見せたいからだ。そうして、彼女の懐に入り込もうとしている。
実際、人を疑わない彼女はすっかり私に気を許し、あのような無防備な頼みごとをしてくるほどに信頼している。
その無条件に向けられる信頼は純粋に嬉しい。それに応えたいとも思う。けれど同時に歯痒さもあった。裏を返せば、自分が男としてみられていないということにほかならない。
私だって男なんですよ、と先ほど口にした言葉をもう一度胸裏で呟いて、溜め息を飲み込む。
視線を向けた先の、ディスプレイの中のモデルと同じポースをしながら画面とにらめっこをしている彼女はやはり無邪気だった。

「このページ、プリントアウトしましょうか?」
「いや、それには及ばん。万が一神宮寺に見つかったら一生笑いものにされるに決まっている。ここで見て覚えて帰る」

もう二度と絶壁などとは言わせぬ、と彼女は呟きながら、ディスプレイを食い入るように見つめている。どうやら今回の騒動も発端はそこであるらしい。

「そんな近くで画面を見ると目を悪くしますよ。それに、またこうして見せてあげますから、また見たくなったら私のところにいらっしゃい」
「いいのか?」

私の言葉に彼女が大きな目を零れんばかりに開かせてこちらを振り向いた。
無表情だと思っていた彼女が、思いのほか表情がくるくる変わることも、親しくなるとスキンシップが多くなるということも、今のような関係になってから初めて知ったことだ。親しくなるにつれて知らなかった彼女の一面を知っていくことが嬉しかった。けれど、それは同時に痛みも伴うものだというのも初めて知ったのだ。

「ええ、いつでも歓迎しますよ」

痛みを隠してにっこりと微笑むと、彼女がつられるように破顔する。

「お前は本当にいい奴だな、恩に着るぞ、一ノ瀬!」

感極まったのか彼女が腕に抱きついてきた。他愛無い戯れだ。分かっている。Aクラスではよくあることらしい。
処暑を過ぎたとはいえ、まだ暑い日が続いている。当然、お互いに薄着だった。彼女の体温が、薄い布地越しに伝わってくる。
なるほど、確かにぺったんこですね、などと思ってしまった私はもう既に駄目なのかもしれない。