結成一年目の記念日(真斗)

もうすぐST☆RISH結成一周年が経とうという頃、ちょうどメンバーの一ノ瀬の誕生日があった。誕生日の日付の語呂合わせで、今年も大きなハムをケーキに見立ててチーズやミニトマトでデコレーションしようと皆で決めていたから、俺はレッスンを少し早めに切り上げて、その準備に取りかかっていた。一ノ瀬が見たら卒倒しそうな料理だが、皆で食べればこのくらいの量はすぐになくなってしまうだろうし、一人分の量もそう多くないはずだ。もちろんそれ以外の料理も同時進行で作っていく。
少し前には四ノ宮と来栖の誕生日があって、この日もささやかながら皆でお祝いをしたものだった。その時は料理が出来る俺と一ノ瀬で準備をしたのだが、まさか今回の主賓を手伝わせるわけにはいかず、俺はひとりで準備していた。他のメンバーはキッチンに入れるには少々危なかっしいところがあるから、これはこれで文句は無いのだが、けれど、少々骨が折れる。
結局、仕事の予定で途中合流の予定だった七海と渋谷が打ち合わせが早めに終わったと手伝ってくれ、ほぼ予定通りに無事料理は完成し、その頃には、来栖や四ノ宮に頼んでいた部屋の飾り付けも終わり、買い出しに出かけていた一十木と神宮寺もちょうど戻って来たところだった。
肝心の一ノ瀬は仕事が少し押してしまったらしく、少し遅れるというメールが俺の携帯に入っていた。今日のこのパーティーは実は一ノ瀬に内緒で企画していた。ささやかな誕生日パーティは必然的に料理を作った俺の部屋で行なうことになっていたから、怪しまれないように俺から一ノ瀬に連絡を入れていたのだ。料理を作っていたせいでメールに気がつくのが遅くなってしまったが、『大丈夫だ、待っているから慌てずに来るように』と簡潔なメールを送れば、五分もしないうちに返信が返ってくる。メールには、『あと十分くらいで着きます』と書いてあった。そのメールの通り、十分ほどで部屋にチャイムが鳴り響いて、にわかに浮き足立った面々を尻目に玄関へと続く狭い廊下をゆく。
玄関のドアを開けた時の一ノ瀬の顔は、きっと生涯忘れられないだろう。それほどに珍しい表情をしていた。しかし、俺の後ろに隠れていた一十木が飛び出してきて、その表情はすぐになくなってしまった。俺はそれを少しだけ惜しいと思った。一ノ瀬と一十木のいつもの遣り取りを眺めながら、あれは、一体どんな時に浮かべる表情なのだろうかとぼんやりと考えていたが、結局答えは見つからないまま耳をつんざくようなクラッカーの音が部屋中を満たして、パーティーの始まりを告げる。俺はその疑問を心の中に置き去りにすることにした。
今日は朝から夜までみっちりスケジュールが埋まっていた一ノ瀬は、疲れた顔をしながらも、どこか嬉しそうにしていたのは、きっと俺の見間違いではない。口では「またあなたたちは奇をてらうようなことをして」だの「こんなにカロリーが高いものをこの時間に食べるなんて」と言っていたが、まんざらでもないようだった。

楽しい時間は過ぎるのが早いものだ。時計の針が夜の11時を回ったところで、そろそろお開きにしようかということになった。一番はしゃいでいた一十木が、いつの間にか寝入ってしまっていたからだった。食べきれなかった料理をタッパーに小分けにしてそれぞれに持たせると、簡単に部屋の片付けを手伝ってもらい、皆を部屋に帰せば、しんと静まり返るリビングがいつも以上に広く見えた。いつだって祭りのあとというのは寂しいものだ。それが賑やかであればあるほど、その落差に切なくなる。
溜め息をひとつ吐いて、洗い物をしなければな、と割烹着の袖口を肘上まで捲り上げたところで、不意にチャイムが鳴った。もう既に日付が変わろうかという時刻だ。誰かが忘れ物でも取りに来たのだろうかと思い、割烹着姿のまま玄関の扉を開けるとそこには一ノ瀬が立っていた。既視感が過らなかったのは一ノ瀬がいつも通りの表情をしていたからだ。
「洗いものたくさんあるのでしょう? 手伝いますよ」
そう言って微笑む彼が手にしている黒い布には見覚えがある。彼が愛用しているエプロンだ。
「しかし、お前を手伝わせるわけには」
「でも、あの量は大変ではないですか?」
そう言った一ノ瀬の言葉に、先ほどまで前にしていた流しに積まれた食器類を思い浮かべる。確かに、多い。
「……そうだな、ではお言葉に甘えさせてもらおうか」

「今日はありがとうございました」
どれも美味しかったです、と隣りで一ノ瀬が笑うから、こちらまで嬉しくなってくる。
「そうか、そう言ってくれると俺も嬉しい」
一ノ瀬との会話は楽しい。考え方や物事の捉え方が似ているところがあるから、会話の内容が理解出来ないということもないし、同じようなものが好きだから、それについて語らい始めるとつい時間を忘れてしまうほどだ。一十木辺りはトキヤはいつも怒ってばかりいる、と言っていたが、そんなことはない。俺の前ではいつだって一ノ瀬は優しかった。それこそ、その先の関係を期待をしてしまうほどに。けれど、この想いは決して口に出さないと決めていた。元々恋愛禁止令もあるし、何よりも俺と一ノ瀬は男同士だ。普通に考えて諦めるべき感情だった。それに、この穏やかな関係を失いたくはない。だから、淡い恋心には蓋をして、何でもない振りをする。演技には少しは自信もあった。

「実は、少し期待していたんです」
不意に一ノ瀬が食器を拭きながら小さな声で言った。会話が途切れたほんの少しの隙間に落とされた小さな呟きを、俺は出しっぱなしだった流しの水の音で思わず聞き逃してしまうところだった。
「誕生日を祝われることをか?」
「いえ、まあ、それも半分くらいはあるんですが、あなたから、この日に誘いがあったので、」
いつもは端的に話をする一ノ瀬にしては珍しく言葉が不明瞭で、よく意味が分からない。どういう意味だと口を開きかけたが、それよりも早く一ノ瀬が話題をすり替えた。
「ST☆RISHもそろそろ一周年ですね」
感慨深げに彼が呟く。先ほどの疑問が中途半端にぶら下がったままだったが、変わってしまった流れにそのまま乗ることにする。
「そうだな、あっという間だった」
本人たちですら知らされていなかった電撃デビューの後、周りを取り巻く環境は目まぐるしいほどに変わっていった。忙しくとも充実した日々に、後ろなんて振り返る暇もないくらいに、前だけを見て走り続けていた。 自分に余裕がなかったからなのだろうか、初めてのドームライブも断片的にしか思い出せず、ただ、満たされたような心地よい記憶だけが脳裏にこびりついている。それはまるで遠い日の出来事のようにさえ思える。
あれから、一年。自分たちはあの頃よりも成長できたと胸を張って言えるだろうか。
「あの頃よりは前へ進めていると良いのですが」
一ノ瀬にしては気弱な発言だった。それとも、それだけ気を許されているのだろうか。
「一ノ瀬、お前は変わったな」
俺の言葉に一ノ瀬は手を止めてこちらの顔をまじまじと見つめた。穴が空くかと思ったくらいだ。
「そうですか? 私はそんなに変わりましたか?」
実は他の人にも最近言われまして、と打ち明けた彼の言葉を拾って俺は言葉を繋げる。
「なんというか、以前は近寄りがたい雰囲気だったのだが、最近はそうでもない、話しかければきちんと答えてくれるし、良く笑うようになった。俺は、今のお前の方が好きだ」
がちゃん、と音がして隣りを見遣ると銀色のフォークがキッチン台の上に転がっている。大方手が滑ったのだろう、濡れている食器は滑りやすい。
「あ、すみません……」
呆然と呟いた一ノ瀬の顔を覗き込めば、彼は俺以上に驚いた顔をしていた。少し、顔が赤いようだ。
「疲れているのか? あまり無理はするな」
フォークを拾おうと手を伸ばせば、同じくそれに手を伸ばしていた一ノ瀬の手と僅かに触れ合う。弾かれたように手を引っ込めたのは彼の方だった。
「すみません、」
「いや、こちらこそ、すまん。俺の手は冷たかっただろう?」
いえ、と首を振る彼はどう見ても普段の彼とは違って見える。朝からみっしり詰まったスケジュールをこなし、夜には皆であれだけ騒いだのだ。疲れていないはずがない。
「一ノ瀬、ここはもういいから、早く帰って休んだ方がいい。明日も仕事があるのだろう?」
そう促すも彼は、いえ、大丈夫です、と繰り返すばかりで埒が明かない。どうしたら良いものかと考えあぐねているうちに、再び途切れた会話の合間に、彼がぽつりと呟いた。
「実を言うと、今日は朝から浮かれていました。いえ、あなたからこの日に会えないかと連絡をもらってから、私は柄にもなく浮かれていたのです」
期待、してたんです、と手元に視線を落としながら先ほどと同じことを言う一ノ瀬の顔は、パーティーが始まる前に玄関で見た時の表情とよく似ていた。俺は、唐突にその表情がどんな感情に起因するものか知りたいと思った。いや、分かっていて、それでもなお一ノ瀬の口から聞きたいと思ったのだ。
「一ノ瀬、俺は、自惚れても良いのだろうか?」
呟いた声はみっともないくらいに掠れていた。一ノ瀬は、俯いたまま無言だった。沈黙が辺りを支配する。口から出た言葉が音になって再び自分の耳に戻ってきたあとで、なんということを口走ってしまったのだろうか、と漸く失言に気がつく。自分に都合の良いところばかりを拾い上げて、自分と彼が同じ想いでいるなどと思ってしまった。これでは勘違いも甚だしいではないか、と先程の自分の言葉を否定しようと口を開き掛けて、口を噤む。一ノ瀬が口を開いたからだ。
「……そう取って頂いて、構いません」
そう言って顔を上げた一ノ瀬の顔は、仄赤く染まっていた。その瞬間、世界から音が消えた。夕刻に玄関で見たよりもずっと鮮やかに色づいた表情に、俺は目の前の一ノ瀬から目が離せなくなってしまった。捕われていたのはもうずっと前からだったのに、その時初めて一ノ瀬と真っ正面から視線を絡めたような気さえしていた。彼は、こんな風に笑う男だったのだろうか、と。
音を立てずに動いた彼の指先が腕に触れる。彼のひんやりとした指先が触れて俄に粟立つ肌は、けれど熱いくらいに熱を持ち始めた。その熱は瞬く間に全身を巡って、遂には何も考えられなくなってしまった。ただ、熱い。
あなたが好きです、と消え入りそうなほどに小さな声で告げられた言葉は、はっきりと俺の耳に届いた。俺はその言葉を俄に信じられなかった。都合の良い夢でも見ているのかと思った。けれど、触れていた一ノ瀬の指が腕を掴む感覚が、これは確かに現実なのだと教えている。

その日、世界が変わった。
もしも言葉にするのならば、これが幸福というものなのだろうか。


結成三年目の秘密(レン)

ああいうのは、どうなんだろうね、とレンは胸裏でひとりごちる。
目の前で繰り広げられているのは、会話だけ聞いていればまるで年頃のレディのような遣り取りだ。けれど、聞こえてくるのは紛れもない男の声。どちらも静かに話すタイプだから、可愛らしさの欠片もない。気持ち悪いとは思わないけど、どちらかというと薄ら寒い。だってキッチン用品や食材、バスグッズの話題なんて、おおよそ男同士がする会話じゃないだろう。端々に聞こえてくる単語はオレには全く理解が出来ない。だけど聞こえてくる会話が気になって仕方がなくて、どうしてもそちらに意識が持ってかれてしまう。手持ち無沙汰に開いていた雑誌の内容なんて全く頭に入ってこない。別に聞き耳を立てているわけじゃないさ、それに彼らだって別に聞かれて困るような話をしているわけでもないだろう。だから、こうして誰でも立ち入り出来るような楽屋で話しているのだろうし。

ST☆RISH初めての冠番組は深夜帯の30分番組だった。基本的にトークが中心で、内容は都度違う。例えばゲストを招いてその番宣をしたりだとか、ゲストのヒット曲を皆で歌ったりだとか、時にはスタジオを飛び出して話題のお店に突撃リポート、なんてこともやったりする。一番性質が悪いのが、我らがボス、シャイニング早乙女が突然乱入してきてとんでもない無茶振りをするだけして、来た時同様唐突に去ってゆく。まるで台風一過だ。今も、そんな無茶振りを終えて、ほっと一息ついた休憩中だった。というか、無茶振りの被害者のイッキとシノミーとおチビちゃんのメイク直し待ちだった。メイク直しと言っても全身ずぶ濡れになってしまった三人はシャワー中で、そのあと一から全部し直さなければならない。身体を張った彼らには申し訳ないけれど、正直時間を持て余していたのだった。
まだまだ新人の身であるから、楽屋はいつも六人一緒だ。楽屋にしては少し広さのある、といっても楽屋なのだからたかが知れている大きさなのだけれど、この部屋に三人きりで、少しだけ空間が空いてしまう。しかも、あのふたりはまるで年頃のレディが内緒話をするかのように身を寄せて会話をしているから、ますますオレが孤立しているような錯覚に陥る。
この三人の組み合わせだとどうしてもオレだけ除け者にされてしまうからちょっと嫌なんだよね、と雑誌を読んでいる振りをしながら、ちらり、と視線だけを向けてふたりを見遣る。ふたりとも俺には決して向けたことがないような柔らかな表情で談笑している。周りに花でも飛んでそうなイメージ、とでも言えば分かるだろうか。
(あのイッチーと聖川がねぇ、)
恋なんて興味ありません、と澄ました顔で言っていた元クラスメイトが、オレの元同室で幼馴染みでもあった男に好意を抱いていたのは気がついていた。普段表情の変化がない人間の方が分かりやすいものだ。それは、同室だった男にも当てはまる。まったく似た者同士だ、と内心呆れるも、だからこそお似合いなのだろうなとも思う。
そんな似た者同士の彼らが互いに魅かれあって恋人同士となったのは学園卒業後だったと思う。本人から直接聞いたわけじゃない。それに、ふたりともどちらかというと関係を秘めていたいタイプなんだろう。だけど、ふたりを纏う空気とか、態度とかがもう、バレバレ。イッキも気がついちゃうくらいの甘い雰囲気を垂れ流されてちゃ、嫌でも気がつくよ。まあ、ちょっと抜けたところのあるおチビちゃんはまだ気がついてないみたいだけれども。
「なんだ神宮寺、何か言いたいことでもあるのか」
こちらの視線に気がついたのだろう、聖川がどこか喧嘩腰な口調で言って冷たい視線を向けてくる。さっきまで周りに飛んでいたお花はもうどこにもなかった。
「別に、楽しそうだなって思っただけさ」
「仲間に入れて欲しいんですか?」
聖川の向こうで意地の悪い笑みを浮かべてイッチーが笑う。その顔に優越感が漂っているように見えるのはオレの見間違いではないだろう。
ホント、ふたり揃うと性質悪くなるよね、なんで?
どんなにオレがまともなことを言ったってイッチーはほぼ例外なく聖川の肩を持つし、聖川に至ってはオレの言葉をハナから信用しちゃいない。まだ十にもならなかった頃、オレの後ろを金魚のフンみたいについてまわってお兄ちゃんお兄ちゃんって呼んで慕ってくれた可愛い弟分はもういない。昔はあんなに可愛かったのに。時の流れは残酷だ、と再びちらりと聖川に視線を向ければ、憮然とした声音で、なんだ、と返ってくる。こうなってしまったのはオレのせいなのも分かっているんだけど、どうにもやりきれない。イッチーはイッチーで相変わらず面白そうに笑っている。ふたりとも他の人の前ではそんな顔しないのに、なんでオレだけ?
いいよ。オレが悪かったよ。もう邪魔しないから、ふたりして同じような表情でこっちを見るのはやめてくれないかな、そんなところまで似てなくてもいいじゃないか。


結成五年目の初めて(翔)

ST☆RISHとしてデビューしてから既に五年。以前ほどグループでの活動はなくなってしまったが、冠番組を持っているおかげで、少なくとも月に二、三回はみんな揃って顔をあわせることが出来る。毎日のように会っていた学生時代に比べたら格段に減ってしまったが、メンバーをテレビや雑誌、街頭広告で見かけない日はないくらいにそれぞれが活躍の場を広げていた。それだけで、自分も負けてられないと精進出来るのだ。
長いようであっという間だったこの五年間、他に脇目も振らずに頑張ってきた。
だから、たまにはガス抜きだって必要だ。
二十歳を過ぎて酒の味を覚えた俺は、時折こうして部屋で酒を飲むことがあった。飲むと言っても主にビールやサワー系ばかりで、日本酒や焼酎は未だにあまり得意ではない。昔一度悪酔いして翌日丸一日駄目にしてしまうくらいの二日酔いに悩まされた経験があるからか、手を伸ばすのを躊躇っているというのもある。
とはいってもひとりで飲むのも侘しいものだ。だから、家飲みの時は寮で部屋が近いということもあって、必ずメンバーに声をかけるのだが、だいたい来るのはいつも同じメンバーだ。那月と音也はスケジュールが空いていたら来てくれていつも馬鹿やって夜遅くまで一緒になって騒いでくれるし、レンと聖川も時折、手土産を持参して来てくれる。それから、基本的にトキヤは来ない。夜遅くに飲食をするのは健康に悪いと言って断られる。そろそろ声を掛けるのをやめようかなとは思うものの、彼ひとりだけ声を掛けられていないと知れば意外にも繊細なあの男が落ち込むだろうというのは決して短くはない付き合いの中で分かっているから形式的に声だけ掛けているという状況だ。
だから、トキヤが酔っぱらっている姿を見たことがない。
いや、一度だけ見たことがある。
確か、メンバー全員が酒を飲める年齢になってから初めてのドームツアーの最終日のことだったと思う。コンサートの余韻もあって、元々テンションの高い音也や俺はもちろん、普段は煩いメンバーを嗜める立場のトキヤも口数があまり多くない聖川も興奮さめやらぬ様子で煽るように酒を飲んでいた。コンサートの疲労感もあったのだろう、聖川の隣りに座っていたトキヤは酒の量が増えるにつれてろれつが回らなくなって、気がつけば聖川の肩に頭を乗せて、すうすうと寝息を立てていたのものだ。寄りかかられている聖川といえは浴びるように酒を飲んでも、そんなトキヤを前にしても普段と全く変わらなかった。肌が白いせいなのか、ほんのりと染まった目許に、いつもは隙など見せないくらいにきりっとしている目が少しだけとろんとしているぐらいで、いつもと変わらない。本当に酒を飲んでいるのか疑いたくなるほどだった。
そのうちに座っていることもできなくなったトキヤが聖川の膝を枕にして寝入ってしまったのだ。聖川の腹の方に顔を向けて、両手で腰を抱く仕草は、いつもの完璧主義の塊のような男からは全く想像できない姿で、驚いた記憶がある。だけど、それよりもびっくりしたのが、聖川が、それを当たり前のように受け入れていることだ。トキヤの目許に掛かる髪を指先でそっと払い除けながら「一ノ瀬はおねむなのだな」なんて言うから酒を吹いちまったじゃねーか。ああ、もったいねぇな、俺の森伊蔵。まあ元々那月が頼んだものを勝手に飲んでただけだし、別に良いけど、いや、この状況は良くねぇけど、
「あー! トキヤくんいいなぁ! ねぇ、翔ちゃん僕にも膝枕してください!」
「あー、もう! 寄るな! 勝手に頭乗せるな!」
那月と格闘し始めた俺をまるで他人事のように穏やかな顔で眺めながら、聖川は「お前達は相変わらずだな」と笑った。
「音也!レン!お前らもぼけっと見てねぇで助けろよ!」
「いいじゃないか、膝枕のひとつやふたつしてあげたって」
減るもんじゃないしさ、ね? とレンがいつもの飄々とした顔で言う。琥珀色のウイスキーが入ったグラスを傾けながら小首を傾げてウインクをひとつ飛ばしてくる姿は俺が女だったらころりと靡いてしまいそうなほどに色っぽい。彼もまた酒が強いらしく、どれだけ飲んでも酔っぱらった姿など見たことがない。ウイスキー=大人の飲み物という良く分からない認識がある俺は、それだけで、目の前の色男を殴りたいくらいだった。その上、その姿がびっくりするほど様になっているから更にむかつく。ああ、もう、今度一発殴らせろ。
そんなレンの隣りでは、すっかり出来上がってしまった音也が、そうだよ! 翔! 膝枕くらいしてあげなよ! なんて無責任なことを言う。俺の周りは敵だらけだ。けれど溜め息を吐く暇なんてない。那月が今も俺の膝の上を狙っている。こいつは目的のために手段を選ばない。だから俺も手加減はしない。ぎゅうぎゅうと絡み付いてくる腕を振り払いながら、攻防を繰り広げる。
「あー! トキヤ寝てる! 珍しいー! 写真撮っとこ!」
その声に、一瞬気がそれてしまった。容赦なく襲いかかる那月のでかい図体が俺を押しつぶす。ぐえ、という俺の声は、ピロリンという気の抜けた機械音にかき消された。
その後のことは思い出したくない。

翌日、音也のブログに掲載された写真には、動いていたせいか、ブレて残像のようになった俺と那月と思しき物体と、聖川の膝枕で寝ているトキヤの安らかな横顔と、ただひとりカメラ目線で緩やかに微笑んでいる聖川が写っていた。
相当な反響があったらしいが、そのブログは一日もしないうちに写真がないものに差し替えられてしまった。トキヤが、あの写真をどうしても降ろせと言って聞かなかったのだと後で音也に聞いた。
あの一件以来、トキヤが酒を過ごすことがなくなってしまったのは少し惜しい。あんな状態のトキヤはもう二度と見られないだろう。きっと、聖川は見慣れているのかもしれないと思うと、そんなふたりの距離感が少しだけ羨ましいとも思った。


結成七年目の六人(那月)

事務所の寮を出るように言われたのは、シャイニング事務所に正所属してから五年が経った頃だったでしょうか。曰く、いつまでも居座っていたら、後から入ってくる新人さんたちの住む場所が無い、というのが理由みたいで。
早乙女学園への入学希望者は年々増えていて、昨年はクラスも増設した分、準所属になる人数も増えるのだと言ったのはかつての恩師で、今でもやっぱり可愛らしいそのひとが困った顔で言っていたから、僕たちも早く部屋を見つけなきゃ、って思っていたのですが、そうは言っても、今まで住宅物件なんて自分で調べたことがなかったので、どこが良いのか良く分かりません。周りの目を気にしなくて済むような立場ではないから、セキュリティーがしっかりしているところで、できれば防音のおうちがいいですねぇ、なんてみんなで話してて。衣装などの私物が多いからクローゼットは広い方が良い、できれば、24時間営業しているお店が近くにあればいいなぁ、なんてそんなこと挙げてたらなかなか見つかりません。

そうこうしているうちに数ヶ月ほど経ってしまった頃でしたでしょうか。一番始めにその物件を持ってきたのはトキヤくんでした。 そのマンションは、事務所にも、よく使うシャイニング系列のスタジオにも近く、その上、閑静な土地柄であることや、24時間コンシェルジュのいるエントランス、防音はもちろん、最新の設備も整っていて、近くに大きな24時間営業のスーパーもある、とても魅力的な物件でした。
トキヤくんは、当時まだ建設中だったその物件の見学会に、今度真斗さんとふたりで行くんです、とパンフレットを見せてくれたんです。家族用の物件なのでしょうか、最近やっと覚えた部屋の間取りの単語3LDKの他に+N+WICと書かれています。良く分からないけどなんだかすごそうです。パンフレットに書いてある間取りを見てみると、玄関に入ってすぐ右側が洋室、左側にも洋室、そこからウォークインクローゼットが繋がっていて、そのまま廊下へと出れるようになっています。クローゼットの向こうは洗面所、その奥にお風呂、その向かいがトイレで、一番奥には大きいリビングがあって、対面式のキッチンからもリビングの様子がよく見えそうです。リビングの隣りは洋室。少し広めのベランダがあって、夜になればそこから遠くの繁華街のネオンが見えるんじゃないでしょうか。想像するだけでわくわくします。
「良いですねぇ。トキヤくんと真斗くんはふたりで住むんですか?」
って聞いたら、ふたりとも固まっちゃいました。あれ? 僕おかしなこと言いましたか?
「いや、……その」
「いえ、見学会に一緒に行くだけで、別に一緒に住むわけでは……、」
「そうなんですかぁ? こんなに広いおうちひとりじゃ寂しくないですか?」
僕は寂しいです。と言葉を続けたら、隣りにいた翔ちゃんに、お前と一緒にするな、って言われちゃいました。
「でもいいなぁ、そこ。ねぇ俺も一緒に見学会行っても良い?」
一緒に話を聞いていた音也くんがパンフレットを覗き込みながら言いました。
「ああ、構わないぞ」
そう答える真斗くんとは裏腹に、トキヤくんは少し不満そうな顔をしていましたが、いつものことなので誰も気にしません。
「やったー! ちょっとスケジュール確認してみるよ!」

結局、トキヤくんと真斗くんと音也くんと、ちょうどオフだった翔ちゃんと四人で見学会に行ってきたみたいです。僕も行きたかったのですが、急な仕事を頂いたので行けませんでした。こればっかりは仕方が無いですよね。
寮に帰ってきた四人は、随分とその物件を気に入ったみたいで、ずうっとその話をしていました。トキヤくんと真斗くんと音也くんはもうそこに決めているようでした。
「決めた! 俺もここにする!」
先程からパンフレットとにらめっこしていた翔ちゃんがぱっと顔を上げてそう宣言しました。
「じゃあ僕もそこにしようかな」
「ええ? いいのかよ? ちゃんと自分の目で見てから決めた方がいいぜ」
「翔ちゃんが良いって言うものは良いんです。大丈夫」
なんて、本当は翔ちゃんと一緒にいたいからです。
「……それなら、別に良いけど」
まあ、みんな一緒で楽しいよな、って翔ちゃんが笑う。僕も笑う。音也くんも真斗くんも笑っている。トキヤくんだけは相変わらず不満そうな顔をしています。
「でもそうするとレンくんだけ別で寂しいですね」
ちょうど一週間前にロケで海外に行っってしまったレンくんとは時差の関係もあってなかなか連絡が取れません。もうみんなが決めちゃったって言ったら、レンくんもびっくりするんじゃないでしょうか。
「……まあ、あいつが帰って来てから話せばいいんじゃね?」
「うんうん、まだ空きありそうだったし大丈夫なんじゃないかな」

それから、あのあとすぐ帰国したレンくんも、オレだけ仲間はずれみたいじゃないか、と言って一緒に契約して、こうして、晴れてみんな一緒のマンションに住むことになりました。マネージャーさんも迎えに来る時にみんな一緒だと楽だ、と喜んでいました。

「……はぁ、どうして寮を出てまであなたたちと一緒のマンションに住まなければならないのでしょうか。先が思いやられます」
大きな溜め息を吐いたトキヤくんはやっぱり不満そうな顔でした。
「じゃあ、イッチーが別のところに住めばいいんじゃないかな?」
「なっ……! この物件を見つけてきたのは私ですよ!? どうして私が……!」
「そんなに怒らなくてもいいだろ、冗談じゃないか」
「まぁ、一ノ瀬。最近はみんな揃って仕事をすることも殆どなくなってしまったし、それに、いざという時に近くに親しいものがいると安心だろう?」
「それは、そうですが、」
「そうだよ! よく言うじゃんみそ汁の冷めない距離がいいって!」
「音也、あなたは言葉の意味を良く理解してから使いなさい」
はぁ、と大きな溜め息を吐いたトキヤくんが、音也くんに冷たい視線を向けましたが、音也くんはよく意味が分かってないようです。 「まぁ、でも確かに、真斗さんの言う通りですね」
フロアが違うのがせめてもの救いでしょうか、とトキヤくんが苦笑する。多分、言うほど嫌がっていないのは皆気がついているんです。
これで漸くみんなの顔が笑顔になりました。
僕はみんなと一緒で嬉しいです。


結成十年目の真実(音也)

長年連れ添った夫婦は顔が似てくるっていうけど、きっとそれは本当のことなんだと思う。

トキヤとマサは昔から似ているって良く言われていた。纏っている空気っていうか、雰囲気が似ているよね。あまりST☆RISHを知らない人間が見たらどっちがどっちだか分からないみたい。だけど、雰囲気が似ていると言っても顔の系統は違う。どちらも顔が良いことには変わりがないけど、ずっと一緒に活動してきた俺たちが見間違えることなんて無い。
……はずなんだけど、あまりに同じ表情で笑うものだから、一瞬誰と話しているのか分からなくなってしまった。最近は思わず二度見しちゃうくらい本当にそっくりなんだ。
笑い方も、静かに話す声音も、ふとしたときに見せる仕草も良く似ている。その上、着ている服まで似ているのだからもうこれで髪型も同じにしたら双子みたいだよね。
「その服、トキヤの?」
目線の先には一見して仕立ての良いテーラードジャケット。堅さを残しながらも細かいところで遊び心がきいているそれはフォーマルにもカジュアルなシーンにも似合うに違いない。ブランドにはあまり興味がないから良く分からないけど、多分、有名なところのものなのだろう、細身の身体を引き立てるように見せるきれいなシルエットは、一種のアートのようだった。きっと、俺が着ても似合わない。
「ああ、これか? 一ノ瀬が着ているのをみて羨ましくなって購入したのだ」
襟を摘んで自らの身体を見遣った彼は、似合うだろうか、と少しだけ不安そうな眼差しをこちらに向ける。
確かトキヤは黒のジャケットだっただろうか。オーソドックスが好きなトキヤが選びそうな色だ。マサが着ているのは落ち着いた色合いの深いブルーグレー。まるで彼のために用意されたとしか思えないような色。
「マサによく似合ってるよ」
すごい格好いい! モデルさんみたい! と素直に思ったことを口にすれば、そうか? と少し戸惑った表情ではにかむから、なんだかこちらまで照れてしまった。褒められることに慣れていないのは毎日顔を合わせていたあの頃と変わらないね。ありがとう、と笑う顔もやっぱりあの頃と同じ。笑い顔が似てきたのはトキヤの方なのかな。だけど、照れ隠しに口元を触る癖、それはトキヤのものだったはずだ。うん、やっぱりふたりは似ているよ。

トキヤとマサが朝同じ部屋から出て来てももう驚いたりはしないけれど、最初はちょっとショックだったんだ。男同士だからとかそういんじゃなくて、どっちも俺の大切な仲間で、もちろんふたりが気が合って仲が良いことなんてずっと前から分かってたのに、どうしてだか除け者にされたような気がしてちょっと寂しかった。それに、俺に何も言ってくれないのもちょっと寂しいなあ。レンが学園卒業後からふたりはつきあってたみたいって言ってたから、レンの言うことが正しければもう十年だよ。十年も秘密にされてるとちょっと悔しいな。俺には言う価値もないってことかな? 確かにちょっとからかいたくなっちゃうかもしれないけど。
きっとふたりのことだから、恥ずかしいとか世間体が、とか思っているんだろうけど、もうそろそろ知らない振りしてるのも限界だよ。だって、十年。それって結構すごいことだと思わない?
知らない振りしている俺たちが、だよ。


結成十五年目のふたり(トキヤ)

「見ましたか、あの記事」
夜分遅くにかえって来た彼に、おかえりなさい、という挨拶もそこそこに、そんな言葉を掛ける。すると彼はああ、と合点が言ったような顔をして諦めにも似た表情で緩く笑った。
「ああ、火の無いところに煙は立たないというが、何も無いところに火をつけて煙を立てるのが彼らの仕事なのだろう」
「ええ、ここまであることないこと書かれると、読み物として面白いです。その空想力を活かしていっそ小説家になった方が良いのではないかと思いますよ」
くすくすと笑えば、彼も、全くだな、と笑う。
結成当時、いや例え五年前だったとしても慌てただろう記事の内容も、このくらいの歳になると逆に面白いと笑えるくらいに余裕が出てくるものだ。今ならば笑って流せるようなことだって、当時はこの世の終わりくらいに重く受け止めていたことを考えれば、時の流れとは恐ろしいものだと感嘆してしまう。
「それで、今日、収録で音也と鉢合わせしたんです。顔を見たのは一ヶ月振りくらいでしょうか。びっくりするほど情けない顔をしていましたよ。真斗さんにも見せてあげたいくらいでした」
「一十木にはパートナーがいるからな、誤解だとはいえ、彼女に見られては都合が悪い部分もあるのだろう」
「それが、全く嫉妬も何もされなかったそうですよ、久しぶりにみなさんにお会いしたいです、って伝言までもらったとか」
「彼女は、……そう言うだろうな」
どこか懐かしそうな顔をして彼が笑う。そういえば、彼は音也のパートナーである作曲家の彼女と同じクラスだったことを思い出す。彼と音也と四ノ宮さんと作曲家の彼女とその同室の女性は同じAクラスでいつも一緒に行動していた記憶がある。今でも仲が良いらしく、時折仕事以外で皆で会ったり食事しに行くことがあるらしい。音也のパートナーの彼女は、今ではシャイニング事務所を代表するような有名な作曲家で、日々忙しく仕事をこなしているようだった。私の個人名義の楽曲もいくつかお願いしたことがあるのだが、相変わらず丁寧な仕事ぶりで、出来ることならばまた彼女に頼みたいくらいなのだが、どうにも大分先まで予定が詰まっているらしく、なかなか無理も言えない状況だ。詳しい内容は聞いていないが、真斗さんは彼女から音也絡みのことで何度か相談ごとを持ち掛けられたと言っていたことがあるから、私よりもずっと彼女のことを分かっているのかもしれない。
早乙女学園に入学してから約十五年。思えば、あっという間のようで随分と長い年月が経ってしまったのだと気がつかされる。変わったものも変わらないものも、多くあって当然だった。

未だ第一線で活躍するアイドルグループ、それがデビュー十五周年を迎えたばかりのST☆RISHだ。
現在は六人そろっての音楽活動については無期限で休止をしているが、個人名義で楽曲を発表したり、役者としていくつものドラマや映画に出演したりと、その活動は幅広い。
そんな彼らが三十を過ぎても一部を除いて未だ浮いた噂が無い、というのがそもそもの発端らしい。このご時世にそのくらいの年齢で結婚をしていない者たちも多いというのに、ただ話題性があるからというだけで記事にしたのだろう。
その記事にはST☆RISHは同性愛者だと書いてあった。記事の内容によると私は学生時代の寮の同室相手であった音也と十五年以上も真剣交際を続けているらしい。それから、真斗さんはレンと身体だけの割り切った関係が続いているのだとか。翔と四ノ宮さんとのことは残念ながら何も書かれてはいなかった。カメラの前であれだけスキンシップが激しい彼らには記者の方も話題性が無いと踏んだのだろうか。それはそれでおかしな話だ。彼らは本当に付き合っているのに。記事にはご丁寧にもコンサートで私と音也がハグしている写真まで載っていた。その程度のスキンシップなんてライブ中はしょっちゅうだったのに、そこだけ切り取られてまるでこれが証拠ですよと言わんばかりに大きな顔をして載っているものだからおかしくて笑いが止まらない。この記事を書いた人間がこのためだけにST☆RISHのライブDVDを端から端までチェックしたのかと思うと、逆に尊敬に値するくらいだった。そこらのファンよりもよっぽどST☆RISHのことが好きなのではないだろか。
「ここまで嘘が並べられているのも珍しいな、名誉毀損で訴えられそうだ」
「事務所は、もう既に動いているそうですよ」
傍聴しに行きたいくらいですね、と笑えば、彼が私の頬に手を伸ばした。
「少し熱いな、酒を飲んだのか? 少し酔っているようだが」
「ええ、少しだけ」
自分でも妙に浮かれているようなおかしな気分だという自覚はある。けれど、あの記事を見てしまったら、どうしても素面ではいられなかったのだ。
「随分と上機嫌だな、……それとも、怒っているのか?」
頬を撫でながら、彼がこちらの顔を覗き込み、小さく笑う。この状態の私に怒っているのかなんて言うのはきっと彼くらいなものだ。というよりも、こんな状態の私は、きっと彼しか知らない。彼にしか見せていない。
「ええ、そうです。腹が立っています」
頬に添えられた手を掴んだままソファの隣りに座っていた彼の膝上にこてんと頭を乗せて甘えてみせる。役作りのために伸ばしているという長い前髪が、俯いてこちらの顔を上から覗き込む彼の顔にかかって、表情がよく見えない。そっと手を伸ばして髪を除ける。相変わらず手触りの良いきれいな髪だった。白髪が交じり始めてきたと彼が笑っていたのはつい最近のことだ。
「だって、たとえ嘘でも演技でも、あなたが私以外の人間と肌を合わせているなんて見たくなかった」
「面白がって読んだのはお前だろう?」
「あなたのことで私が知らないことがあるのが悔しいんです」
わざとらしく頬を膨らませると、頭上からくすくすと笑い声が降ってくる。あの記事を見ても全く動じていない彼が恨めしい。少しだけ音也の気持ちが分かった気がする。もしかしたら、私も情けない顔をしているのだろう。
「いっそ私とあなたのことをすっぱ抜いてくれれば良かったのに」
「一ノ瀬、……やはり酔っているな?」
彼が怪訝な顔をして顔を覗き込む。
「たまに、あなたは私のものなのだと全世界の人に叫び出したくなる時がありますよ」
だって、あなたを独り占めしていいのは世界で私だけなんですから。
互いが相手しか視界に入らないような閉ざされた狭い世界でずっとふたりきりで過ごしたいけれど、そんなことは叶わない。それに、この道を選んだのは自分の意志だ。そして、それは彼も同じ。この道を目指さなければきっと交わるはずがなかったふたりの人生。彼と自分は立場が違いすぎる。こうしている今でさえ、時折これは都合の良い夢で、目が覚めたらなくなってしまうのではないかと不安に思うことすらある。

自分の部屋には戻らずにこうして真斗さんの部屋に帰るようになってもう三年以上経つだろうか。もちろん自宅には定期的に帰っては換気の入れ替えをし、掃除をしているのだが、今では自分の部屋はまるで物置のようになってしまった。元々ここは家族用の物件であったし、互いに大して荷物があるわけではなく、それに、彼とは同じような趣味をしているから共同で使っているものも多い。この生活に何の不自由もない。満たされるほどに満たされている。だから使っていない自分の部屋などさっさと手放してしまえばいいのに、未だ出来ずにいる。翔が住んでいた物件を手放したのだと聞いたのは五年ほど前になるだろうか。今では四ノ宮さんと一緒に暮らしているのだという。その思い切りの良さが羨ましくもあった。
実際問題、この不安定な業界で将来何が起こるか分からない。慎重と言えば聞こえはいいが、実際はただ臆病なだけだ。それに、彼の方からもここで一緒に暮らそう、という提案がないのも私を臆病にさせていた。自分からも口にしたことがないくせに。私はどこまでも臆病で卑怯だ。
思えば、彼とは人生の半分をも共に過ごしている計算になる。早くから親元を離れた自分にとって、彼は今では家族のような存在だった。けれどそれでもまだ不安だった。大切だからこそ、手放したくない。あの日、彼が私の世界を変えてしまってから、私の世界は彼で満たされていた。だから、その世界からあなたが消えてしまったら、私はまともに呼吸をすることすら出来なるなるかもしれない。それほどに私は、あなたを、
「愛しています」
そう告げれば、目の前の愛しい人の顔が近づいてきて、キスをひとつくれた。触れるだけのそれは何よりも甘い。
幸福、なんてたった四文字の音で表すにはおこがましいほど、私は満たされていた。あなたに溺れていた。幸せ過ぎて息が出来なくなって、いつか泡になって消えてしまうのではないかと恐怖するほどに、あなたが愛おしかった。
この想いは十五年前から変わらない。いや、日増しにあなたへの想いが増していくばかりだ。
それでも足りなくて足りなくてあなたを求めてしまう。いつか、あなたを壊してしまうのではないかと思う。それでも、あなたはどんな私も受け入れてくれるから、私はこんなにも貪欲になってしまったのでしょうね。
私は世界で最も幸福で、そうして最も愚かな男に成り下がってしまったのですよ。
あなたのせいです。あなたが私を変えたのです。ですから、責任を取ってもらわなくては。
「愛しています」
再び告げると、先ほどと同じように彼が顔を寄せる。今度はすぐに離れないようにと首の後ろに手を掛けて逃さぬように引き寄せた。くぐもった声すら愛おしくて、漏らさぬよう唇を塞げば、観念したのかこちらと同じような激しさで舌を絡めてくる。重力に従って下にいる私の咥内に溜まっていく唾液はただただ甘くて、媚薬に良く似た毒のように頭の芯を痺れさせていく。飲み下せなくて口の端から零れ落ちたそれを、ピアノを嗜む繊細な指が拭う。そのまま、濡れた唇をひと撫でされて、背を甘い痺れが走り抜けた。
ああ、この世界はなんて甘美なのだろうか。