いつまで続くのだろうか、この生き地獄は。
今日の相手はふたり。番組プロデューサーと大手CD会社の役員だった。
どちらも馴染みの人で、手練手管はある程度分かっているから、少しだけ気が楽だ。しかし、そうは言っても気は抜けない。ここで適当なことをして彼らの機嫌を損ねてしまっては、今進みかけている予定も白紙になってしまう。だから、彼らが望むような痴態を演じなければ。
「あっ、やぁ……ん、らめぇ……! そこ、気持ちいっ……!」
鼻に掛かった猫なで声が好きだと言ったのは誰だっただろうか。今、散々にこの身体を蹂躙している男ではなかったかと思うが、それでもこの舌足らずなしゃべりも、直接的な言葉も、今までの経験からそれが彼らを悦ばせるものだと知っている。だから、あられもない声をあげて、耳を塞ぎたくなるような卑猥な言葉を口にして、彼らの情欲を煽る。そうすれば、幾らか早く終わる。それに、変に抵抗しては痛い目を見るだけだ。一応アイドルなのだから顔に傷を付けられては困る。仕事が欲しくてこんなことをしているのに、仕事ができなくなってしまったらそれこそ本末転倒だ。
「あっ……ん! やぁ……、はや、く、欲しいにゃ、」
ちらりと、上目遣いをして、これ見よがしにゆっくりと舌先で唇を舐める。それだけで男は既にぐずぐずに解れていた後穴に昂った欲望を突き立てて、ぐちゃぐちゃとめちゃくちゃにかき回し始める。
「ひゃ……! あっ…ん! すご、い……!! おっきいのいいよぉ……!」
四つん這いの体勢で獣のように背後から容赦なく突き上げられて、感じているような振りをしてシーツに顔を埋める。既に汗やら唾液やら様々な体液に塗れてぐちゃぐちゃになったシーツは、見るも無惨な状態だった。その惨めさといったら、多分、自分とそう変わらない。
「あっ! ああ……、ん、もっと……! あん! ……いっ、た、!」
自ら腰を揺すり快楽に耽っていると、唐突に髪を掴まれ、もうひとりの男の醜く昂ったものを頬に押し付けられて、その意図を察する。口元だけで笑みを浮かべて、さも美味しそうにそれを頬張り、わざと音を立てて吸い上げる。
「ん……、ふ…ぁ、んっ、んっ、プロデューサーさんの、おいしいにゃあ、……ん、」
見せつけるように裏筋を根元から舐め上げ、張り出した箇所に吸い付くように唇を落とす。既に先走りの汁を零している先端の窪みを尖らせた舌先でくすぐって、唇で食むように亀頭部分を刺激し、びくびくと脈打っていたそれが大きくなるのを見計らってそのまま喉の奥まで銜え込んだ。無理矢理行為を強要されていた初めはこれをさせられる度にえづいていたのだが、慣れてしまった今ではそんなことはない。喉の奥で数度亀頭を擦り、喉を締めれば、男の陰茎がびくりと震えてよりいっそう大きくなったようだった。発声練習の時に習った喉の奥を広げる方法が、こんなところで応用されるとは思わなかった、とひとり辟易するが、それでも口だけは立派に動くこの身体が恨めしい。
熱を与えられているのに、頭の芯はどこまでも冷たくて、この状況を冷めた目で見つめるもうひとりの自分がいる。多分、それが一ノ瀬トキヤなのだ。ではここではしたなく喘ぎ声をあげて、男の欲望を銜え込んで腰を振っている自分は一体誰なのだ。HAYATOか。いや、彼は作られた架空のキャラクターのはず。ならば、この身体はただの人形か。そうであったらどんなに楽だっただろうか。人形のように姿形だけ繕って、中身は空っぽならばこんなに苦しい思いも惨めな思いもしなくて済むのだろう。それでも私は人で、感情があって、生きている。この現実を受け止めなければならない。幼い頃からの夢のため、なのだ。どんなことにだって耐えられる。耐えなければいけない。
これが終わればまたひとつ仕事が増える。歌が歌える。それだけが今の自分を支えていた。
自分の身体から零れる粘着質な水音も、この身を蹂躙する男たちの荒い吐息も、自分の欲に塗れた声すらもどこか遠くのことのように聞きながら、現実と乖離していく自我を繋ぎ止めようと、きつく目を閉じる。
「あっ、あっ、もぅ、らめ、HAYATOいっちゃ……ぅ、あっ、イク、あっ、あぁーっ」
いつ終わるのだろうか。答えのない問いは口から出ることもなく頭の片隅でぼんやりと燻ったまま白く霞んで消えた。

「う、……おぇ、あ、はぁ」
喉を逆流する液体が、びちゃびちゃと耳障りな音を立てて目の前の便器の中の渦に吸い込まれてゆく。もう出せるものなどないのに、それでも嘔気は止まらなかった。胃液だけが俯せた顔の唇の先からだらりと零れ落ちる。
肺の中までもあの青臭い匂いと酸っぱい胃液の匂いが充満しているような錯覚に再びえづく。それでもやはり喉の奥からはだらだらと糸を引く胃液しか出てこず、代わりに漏れた嗚咽は、水を流す音に掻き消えて、なんとか自我を保っているような状態だった。

以前ならばこなせていた『仕事』であったのに、最近はだめだ。
多分、早乙女学園に通い始めたのが原因なのだろう。誰とも関わらずに過ごすはずだったのに、同室の男が犬の子のように無邪気に懐いてくるからいけない。それだけじゃない、同じクラスで課題曲のユニットを組むことになった彼らがあまりに私に干渉してくるものだから、凍てつかせていた感情が動き始めてしまったのかもしれない。
それに、と脳裏に思い浮かんだのは真っ直ぐな藍色の髪をした彼の姿。心根が雪のように真っ白なひとだった。
多分、自分と似たものを持っているのだろう、ひと目見た時からこのひととは気が合うだろうという予感があった。事実、共通項はそれなりにあった。それは自分だけがそう思っていたわけではなかったらしく、時折共通の知り合いから雰囲気が似ていると評されることあることからも、そうなのだと思う。
けれど、表面上の性質は似ていながら、根本はまるで違っている。自分は彼のようにきれいでもなければ、純粋さもとっくの昔になくしてしまった。既に、人を信じるということができないのだ。恐らく、自分がもっと真っ直ぐに育っていたならば、あんな風に人を純粋に信じることが出来て、誰にでも優しく接することが出来る人間になれたのではないだろうか、と。自分がなり得なかった姿がそこにあるような気がして、ある種の羨望と憧憬があったのだ。だからこそ、こんなにも彼のことが気になってしまうのだろうか。 幸か不幸か、彼とは直接関わりがなかった。だけど、それで良い。遠目で眺めているだけなら、己の汚れた手が真っ白な雪を汚さずに済むのだから。それで満足だったのだ。

◆◆◆

学園卒業後、生活は一変した。
卒業オーディションでは優勝は逃したものの、それなりの評価を頂き、晴れてシャイニング事務所へ準所属することになった。それにより、今までHAYATOとして在席していた事務所も、HAYATOというキャラクターも辞めることになった。
レギュラー番組を数本、単発のバラエティーならば月に10本程度の露出があったHAYATOを事務所は手放すのを惜しんでいたが、なんとか話をまとめることができたのは、同行してくれた学生時代の担任の日向さんが間に入ってくれたからだった。一流のアイドルであると同時にシャイニング事務所の取締役である彼に、小さな芸能事務所の社長が強く出ることは出来なかったようだ。早乙女さんほどではないにしても、彼もそれなりに業界では力を持っていることをまざまざと見せつけられて、そうして、自分もいつか誰にも文句を言わせないくらいの場所までのぼりつめたいと思ったのだった。
結局話し合いは半日にも及んだ。決して、円満とは言いがたい事務所移籍だったが、後悔はなかった。元より自分で選んだ道だ、この程度のことは予想がついていたし、なにより覚悟の上だった。今まで犠牲にしてきたもののためにも、自分は夢を諦めたりはしたくなかった。

それから、シャイニング事務所に移籍すると共に、事務所の寮に移り住むことになった。
寮ではなんの因果か惹かれていた彼と隣り同士になり、それから、同じドラマに出演することも何度かあって、少しずつ親しくなっていった。
学生時代に全く接点がなかったわけではない。料理が得意なこと、時折、朝の図書館で見かけること、いくつかあった共通項をなぞるように彼に近づけば、すんなりと彼の近くに居座ることが出来たのだった。そうして、遠くで眺めていただけでは知り得なかった彼のことを、ひとつ、またひとつと、知るうちに欲が出ててきてしまった。
それに、HAYATOを辞めたことで営業に行くこともなくなり、後ろめたさがなくなったのも要因のひとつだったのだろう。あの営業をしなくなったことで精神的にも肉体的にも、それから時間的にも余裕ができ、少々浮かれていたのかもしれない。
遠目から眺めるだけで良かったはずの想いは、彼とのそれ以上の接触を望んでいた。
彼と親しくなりたい、友人になりたい、彼に触れたい、彼の特別になりたい、そして、彼に愛されたい、と思ってしまったのだ。
次第にエスカレートしていく欲望が少しずつ零れて、それを拾うこともせずに放置していたら、彼がそれを拾い上げてくれたような。そんな錯覚があった。
意識してそうしたわけではなかった。けれど、心のどこかで彼が気づいてくれたならば、と期待していた部分もあったのだろう。事実、彼は気がついたのだ。私のこの感情に。
自分が元々欲深い人間であるということは自覚している。
それからは、少しずつ、本音を織り交ぜて接していった。これはそれなりに計算はしていた。こうすれば彼はきっと喜ぶだろう、これを言えば、きっとひとりになってからも私のことを気に掛けるだろう、と。どうしてだか、彼のことは手に取るように良く分かった。もしかしたら、彼にも私の心の裡が知られているのではないかと危惧したことも一度や二度ではない。けれど、どうせ知られているならば、と幾らか大胆な行動に出れたことも事実だった。
そうして、少しずつ彼の中で許されてゆく自分を見つけて、彼の中で私という存在を強く印象づけるのに数ヶ月の時間を要した。三日に空けず顔と名前しか知らないような不特定多数の人間と行為を繰り返していた当時から考えると今の状況は笑ってしまうくらい悠長だった。
そうして手に入れたこの関係に明確な始まりの言葉はない。遠回しな好意の言葉と、気の遠くなるような長い時間を掛けてゆっくりと近づく距離で、気がついたらそこに収まっていたような関係だった。もし仮に言葉にするならば、懐柔とか侵食というのが一番しっくりくるだろうか。
緩やかに私の中に入り込んできた彼の懐に私の欠片を織り交ぜていって、そうしていつかひとつに混ざりあってしまえばいいというおかしな妄想をするほどに、彼のことしか見えなくなっている自分に気がついてそれがまた可笑しかった。要するに、あの地獄のような日々を送るうちにどこかが欠けてしまった自分を、彼と同化することによって埋めたかったのかもしれない。それは恋慕かと問われれば違うのかもしれない。それでも、彼のことが欲しくて欲しくてたまらなかったことだけは事実だった。
しかし、距離が近くなったといっても身体の関係はなかった。
彼が、それ以上のことを望んでいるのだということは気がついていた。情欲の混じった目はあの頃によく見ていたのだ。だから、多分私の思い違いではないことは分かっている。
けれど、その先へは進めない。身体を重ねたらばれてしまう。
行為が初めてではないことも、少しの刺激で快楽を救いあげてしまう浅ましい身体も、知られたくなかった汚い過去も。時折、身体が疼くこともあったが、そんな時は仕方ないから自分で処理をする。そんな時に、一人部屋は便利だと埒もないことが頭を過るが、それはすぐに消えて、代わりに彼の顔が思い浮かんで幾らもしないうちに白濁した欲を手の中に放った。そうして、冷静になると罪悪感が沸き上がる。その繰り返しだった。
きっと彼はそんな私のことを軽蔑するだろう。
彼のことが好きならば、この関係を少しでも長く続けたいのならば、言わなければいけないと思うと同時に、この微温湯から出ることを躊躇う自分もいて。いや、とどのつまり、浅ましい自分は彼の温もりをもっと深いところで感じたいと思うと同時に、自分はこの温もりをどうしても手離したくないのだ。
打ち明けて、それでもなお私を受け入れてくれるならば、と考えたこともあった。
しかし、そんな都合のいい話はない。
彼に正直に話してこの関係が終わるか、それとも、彼に嘘を吐きながら側にいるか。
答えが出ないまま、私は今日もあなたという微温湯の中であなたを騙し続けている。

◆◆◆

事務所に呼ばれたのは日付が変わってから数時間経った頃だったと思う。
いつも無茶振りばかりするこの事務所の社長だが、けれど、こんな非常識な時間に呼びつけることなどない。なにかあったのだろうか、と一抹の不安を抱えながら向かった先の事務所は必要な箇所しか灯りがついておらず、いつも明るく声を掛けてくれる受付や事務の人たちの姿も見えず、しんとしていた。当たり前だ。人のいない事務所のソファで大人しく座って待っていると、見計らったようにこの事務所の社長がドアの向こうから現れた。
「こんな時間に呼び出して悪かったな」
普段のふざけた口調とは違う言葉に、嫌な予感が沸き上がる。
「これは、明日発売される週刊誌だ」
言葉とともに目の前に差し出されて視界に飛び込んで来たのは、目に痛い原色で彩られた雑誌の表紙。そこに良く見慣れた名がほんの小さく書かれていることに気がつき、息を飲む。ばくばくと早鐘を打つ心臓の音がうるさい。雑誌には丁寧にも付箋が貼られていて、震える手でそのページを開く。お世辞にも上質とは言えない薄ぼんやりとした色の紙に刷られた写真と文字。
写真自体には見覚えがない。けれど、写真を撮られたという記憶はあった。あれは、ひとりで4人もの人間を相手にした時だっただろうか。そもそもそんな大勢を相手にすること自体稀だったから、記憶に残っている。二度と思い出したくなかった嫌な記憶。心の一番奥底に仕舞い込んで蓋をして誰の目にも触れさせないまま墓の中まで持っていくつもりだったのに。
指先から温度が消えてゆく。かたかたと小さく震える手を止めようと自身の腕を強く握り込むけれども、それは徒労に終わる。誰にも知られたくなった隠し事が痛みを伴いながら無理矢理に引きづり出されて白日の下に晒されている。知らてしまうのが恐ろしいのではない。知られることで、本当の自分が露見することで、失望されるのが、嫌われてしまうのが何よりも恐ろしいのだ。今まで築いてきた信頼とか、そういったものがすべて覆されて、指の隙間から擦り抜けてゆくような絶望感。
「……すみま、せん」
絞り出した声はみっともなく震えていた。今が静まり返った夜中でなければ埋もれてしまうほどの小さな言葉は、まるで他人の声のようだった。
もう、すべて終わりなのかもしれない。
アイドルとしても、一ノ瀬トキヤとしても。
卒業オーディションで 利益しか生みませんと言った自分の言葉が白々しい。事務所にも迷惑を掛けてしまっている。自分は解雇されるのだろうか。いや、それよりも、もう二度とこの業界で生きて行くことが出来ないかもしれない。
「一ノ瀬、これは他人だ。お前はこんな写真など、知らない」
顔を上げると、サングラスで隠れた奥の目がまっすぐにこちらを見つめていた。そこにいつもの人を揶揄したような表情はなかった。
「これは、お前ではない。……いいな?」
暗示のように、そう繰り返される。それはまるで誘導尋問のようだと頭の片隅で思った。この状況で自分が今応えるべき返事はただひとつしかない。
「……はい」
からからに乾いた口でやっとそれだけを口にすると、自分の父親ほどの年代の男が静かに頷いた。本当にこの人にはなにもかもお見通しなのだ。昔から、そうだった。自分は何度この人に助けられたのだろうか。
「こんな記事を載せられちゃったYouもまだまだデスね〜?」
先ほどとは一変、いつもの調子に戻った社長が場違いなほどに明るい声音で言った。それだけで今までの重苦しい空気が拡散して消えてしまったようだった。
「罰として無期限の謹慎! 日向サンを呼んでありますから、さっさと罰を受けちゃってチョーダイなッ!」
それだけ言って、放り出されるようにして追い出された事務所前には、社長の言葉通り一台の車が停まっていた。
深夜に車で迎えに来てくれた日向さんは、社長への愚痴を言いながらも、優しかった。
有名税みたいなもんだから気にすんなよ、と肩を軽く叩かれて、いつもと変わらない笑顔を向けてくれたことに少しだけ安堵する。雑誌のことについてはそれ以外話題に上がることはなく、道すがら今年の早乙女学園の生徒の話だとか、そんな他愛無い世間話ばかりしていたように思う。彼が一体どこまで知っているのかは分からないが、自分も今はそれに触れないで欲しかったから、その気遣いが純粋にありがたかった。

◆◆◆

見ず知らずのマンションの前に辿り着いたのは車に乗ってから小一時間ほど経った頃だったと思う。その頃には先ほどの動揺が嘘のように落ち着いていた。社長命令だから、と事務所の寮の鍵と携帯電話を渡すように言われて、逡巡の末にそれらを彼に手渡せば、悪いな、と小さく謝罪される。謝るのはこちらの方だというのに。それから、二週間ほどで元の生活に戻れるだろう、と恩師は言った。それまでここで我慢するようにとも。

連れてこられたこの部屋にはテレビもましてやパソコンもなかった。新聞は毎朝届けられていたから日付の感覚を間違えることもなく、世の中の出来事は表面的には伺い知ることが出来た。仕事への送り迎えがあることを除けば普通に仕事にも行っていたし、着替えも真新しいものがいくつか用意され、冷蔵庫には予め食料が入っていたから、不自由なく日々を送ることが出来ていた。ただ、外出と個人行動だけが制限されていてはいたが、欲しいものを告げれば翌日には手元に届くほど恵まれた生活をしていたのだった。
不思議なことに、今まで特に示し合わせたわけでもなくスタジオですれ違うことが多かった他の同期たちとはまったく会わなかった。被らないようスケジュールが組まれていたのかもしれない。携帯が没収され、寮からも隔離されているこの状況では彼らとの連絡手段がないも同然だった。それでも生きていくことに支障はないのだからそれでも大丈夫だと思うと同時に、もしかしたら彼らから避けられているのではないかという不安がいつもつきまとっていた。慣れない枕も、真新しいシーツの匂いも、いっそう不安を掻き立てる材料にしかならなかった。
そんな日々に疲れていたのかもしれない。その日は珍しく夜も早い時間に眠りに落ちていた。就寝していた、というよりも寝落ちしていたといった方が正しい。灯りもつけっぱなしのリビングで、ソファに沈むようにして眠っていた私は、部屋中に響く聞き慣れた高笑いで唐突に覚醒した。目を開けば、目の前に仁王立ちした社長が立っている。何が起こったのか分からずにぽかんと口を開けたまま大柄な社長を見上げていると、彼はいつもの砕けた口調で、「もう大丈夫デスから寮に帰ってくだサーイ」と笑って、まるで犬にそうするように乱暴な手つきで頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。状況を把握する間もなく仮住まいから追い出された私に渡されたのは、取り上げられていた寮の鍵と携帯電話。先ほどまでそこにいたはずの社長は気がつくと消えていて、寮まで誰かが送ってくれるのだろうという淡い期待は見事に打ち砕かれた。
ここがどこかも分からないから、まず携帯で位置情報を把握して、タクシーを呼び、漸く見えてきた見慣れた街並にほっと胸を撫で下ろしたのは、部屋を出てからゆうに一時間を越えていた時刻だった。
その間に確認した携帯には沢山のメールが届いていた。失望や落胆、中傷のようなものがあるのではないかと内心恐れていたが、心ない内容がかかれているものは一通もなかった。どのメールもみな、暖かい言葉が綴られていた。メールの中には日記のようなものまであって、彼らがどんな仕事をしていたのかも知った。
隔離されてた期間は殆どひとと関わらず、外から切り離されたような生活をしていたため、たかだか二週間程度のことだが、世の中に置いてかれてしまったような居心地の悪さがあった。きっと浦島太郎はこんな気持ちだったのだろう、と幼い頃に繰り返し読んだ昔話が思い出されて小さく笑う。
多分、自分はもう大丈夫だ。話を向けられたら、笑って、あれは他人ですよ、と言おう。
大丈夫だ、と小さく呟いて、俯いていた顔を上げる。寮はすぐそこだった。

久々に足を踏み入れた自室は、どこか埃っぽかった。なんの沙汰もなく突然の軟禁状態にされて、冷蔵庫の中身が恐ろしいことになっているだろうと思うものの、疲れていてなかなか身体が動かなかった。それに、そんなことよりも先にやらなければならないことがある。
携帯を開いてそのひとつずつに返事を返していく。心配を掛けてしまったことを詫びて、こちらはなんともないということを簡単に書く。内容はほぼどれも同じだったが、一斉送信で済ませる気にはならなかった。
ひと通り溜まっていたメールに返事を返して、ぽつぽつと彼らからの返信が来始めた頃。どうしても彼にだけ送るメールの内容が定まらず、何度も書いては消してと繰り返していたら、随分な時間が経ってしまっていた。何度打ったメールを見返しても、送信ボタンを押すのを躊躇われてしまう。一番知られたくなかった人物、いや、一番嫌われたくない人物だ。直接電話を掛けてしまおうかとも頭を過ったが、壁掛けの時計を見遣れば、寝るにはまだ早い時間だが、電話をかけるのも少々気が引ける時間だった。
いつまでもこんなことをしているわけにはいかない。腹を括って送信ボタンを押そうと指を伸ばしかけたその時、不意に玄関のチャイムが鳴った。その音にすら人柄が表れているような、落ち着いた音だった。直感的に彼だと思い、簡単に身嗜みを整えると、破裂しそうなほどに高鳴る心臓を抑えながら玄関の重いドアを開けた。

笑って迎え入れるはずだった。とんだ目に遭いました、と笑い飛ばしてしまおうと思っていた。けれど、重いドアの向こうに佇む神妙な顔をした彼を見てしまったら、そんなこと言えなくなってしまった。大丈夫だと何度も言い聞かせていたのは、ただの己の希望だったことに過ぎなかったのだと思い知らされる。
顔を見たら気がついてしまった。彼は、分かっているのだ、あれが本当のことだと。無言の時間がその事実を肯定している。先ほどまでどうして大丈夫などと思えていたのか分からないほどに、内心動揺していた。コーヒーに口を付けたのは手持ち無沙汰な沈黙をどうにかしたかったからだ。けれど、そんなことでは沈黙は破られない。そんなこと分かっていたはずだったのに、何度も同じ行動を繰り返す。落ち着かない。彼が隣りにいるのにこんなにも息苦しい。ふたり分の呼吸がこの部屋に充満して、いつか、ふたりとも息が止まってしまうのではないだろうか。
きっと、もう潮時なのだ。
「何も、言わないんですね」
無理矢理絞り出した声は、平素と変わらぬ声音だったと思う。その問いに答えを返した彼もまたいつも通りの声音で社長から箝口令が敷かれていると言った。それはあのひとの気遣いなのだろう、道理でメールにも直接的な言葉がなかったはずだ。本当にあのひとには頭があがらない、そう思いながら溜め息を零す。
「……聞いて欲しかったのか?」
溜め息をどう捉えたのだろうか、ほんの少し気が緩んだ瞬間に落とされた呟きに、我知らずに、息を詰める。
そう問われて、何も言えなくなった。
出来ることならば吐き出したかった。もうそろそろ重荷を棄てたかった。
中途半端に同情されて、腫れ物を扱うような態度をとられるくらいならば、いっそ嫌って欲しかった。あなたのことを諦められるくらいに、未練など残さぬように、罵って責めてくれたら良かったのに。
今考えると少し、自棄になっていたのかもしれない。彼と終わりになっても良い、などと考えていたことは確かだった。本当は何よりも失いたくないのに、一度見失ってしまった距離感が掴めなくて、どうしたら良いのか分からなくなる。こんなにも辛いのならば、すべてなかったことにした方が良いかもしれないと思ったのだ。どうせ傷つくのならば、まだ傷が浅いうちに離れた方がいいのではないか、と。追い縋って取り返しがつかなくなる前に。手に入らない物をいつまでも追い求めるよりも諦めることの方が簡単だ。いつだってそうやって生きてきたではないか。いつから自分はこんなにも変わってしまったのか。
ここにいたって無益な時間しか生まれないのなら、せめて、幕引きは自分で。
「私は、あなたのことが好きです。だから、あなたに隠し事をするのは辛い。……あなたは、気づいているんでしょう?」
彼の身体が強ばったのが分かる。けれど、話すことはやめなかった。
こんなにも自分のことを明け透けに話したのは初めてだった。取り留めのない話に彼はただ無言だった。相槌もなく静かに聞き入っている彼が、軽蔑に満ちた表情を浮かべているのだと思うと、彼の顔を見るのが恐ろしかった。嫌って欲しいと思いながら、そのくせ嫌われるのを何よりも恐れている自分が酷く滑稽だった。手元に落とした視線は自分の手がみっともなく震えていることを否が応でも気づかせている。声が震えずに話せたことは、褒めて欲しい。

「どうです? 私はこんなにも汚い人間です」
自分で自分を貶すような台詞は、傷を和らげるためだ。人に言われるよりも、自分で言った方が遥かに傷が浅い。
けれど、その言葉の後も彼はやはり無言だった。きっとそれが答えなのだろう。優しいこの人は私を傷つけないように言葉を選んで、そうして真綿で首を絞めるようにゆっくりと、私に悟られないうちに拒絶するのかもしれない。それならばそれでいい。それならまだ立ち直れる。時間が掛かるだろうけれどまた歩き出せる。だから、これ以上近くに来ないで欲しい。まだあなたに好かれているのだと勘違いしてしまう前に、早く。
「一ノ瀬」
名を呼ばれ、びくりと肩が揺れてしまった。その動揺を悟られないように肩に力を入れたところで、不意に引き寄せられて、温かなものが身体を包む。
「辛かったな、よく頑張ったな」
思いもかけない言葉に、息が止まる。
そうだ、自分は辛かったのだ。なんとかしなければとひとりで抱え込んで、誰にも言うことが出来ず、ずっとひとりで。いつしか辛いなんて思うことはやめてしまった。そう思ってもどうにもならないことだってあるのだと知ってしまった。いつまでも希望を見続けられるほどにもう純粋ではなくなってしまった。業界の裏事情や大人の汚さ、そんなものばかりが記憶に残っている。もちろん、楽しかったことだって沢山あった。けれど、それらを思い出すたびに汚れた記憶がずっと纏わりついてきて、楽しかった記憶ごと閉じ込めて蓋をしてしまった。あの頃の自分が、自分を守るためには、それしか方法がなかった。
あの悪夢のような日々から抜け出して、自分はもう大丈夫だと思っていた。そう思い込もうとしていた。いつか、時間がそれを解決をしてくれるだろうと高を括っていたのだ。だけど精神的にはいまだ、あの頃の記憶に縛り付けられていたのだと思い知らされる。傷は確かに塞がったかもしれない、けれど触れられればじくじくと痛む。自分はこんなにも弱かった。助けて欲しいと思っていた。いや、あの頃の自分を赦されることを望んでいたのかもしれない。
他でもない、あなたに。

無言のまま抱きすくめられて、身じろぎひとつできないまま続く沈黙の中、私の思考を現実へと引き戻したのは、たったひとこと。
「愛している」
静かに告げられる言葉に背が震えた。それは、私の今までの柵を根底から覆すほどの威力を持っていた。
そうして、そのひとことで、私のこの汚れた腕を彼の背に回しても良いのだと知る。
ずっと、手を伸ばすのを躊躇っていた。私の過去を知ってなお、手を差し伸べてくれるひとがいるなんて、想像だにしなかったのだ。
ああ、けれど、思えば彼だけではない、社長も、かつての恩師も、学園時代からともに時間を過ごしてきた仲間たちも、こんなにも温かかった。自分は、どれだけたくさんの人たちに支えられていたのだろう。どうして今までそれに気がつかなかったのだろうか。
みっともなく震える手を彼の背に回して感情のままにきつく抱き締めれば、それと同じくらいに強く抱きすくめられて、目頭が熱くなった。明日も撮影がある。目を腫らせてはいけないと思うのに、涙が溢れ出してきて、止まらなかった。漏れてしまいそうな嗚咽を我慢しようとして彼の肩に顔を押し付ければ、そっと頭に手を添えられて、そのまま髪を撫でられる。その手はどこまでも優しかった。

過去は消えない、記憶は残る。
それは、この先ずっと影のようについてまわるのだろう。或いは、目の前に立ち塞がって私の行く先に影を落とすのかもしれない。例えば、今回のことのように。
それでも、あたたかな温もりも未来も、手を伸ばせば掴めるほど私のすぐ近くにあったのだと知った。手を伸ばしても良いのだということも。
私は、恐ろしくなるくらいの幸福というものを、この日、初めて知った。

どれくらいそうしていたのだろうか。テーブルの上に置いたままだった携帯が振動する耳障りな音で現実に引き戻された。顔を上げれば、強くしがみついていたものだから彼の仕立ての良いシャツはすっかり皺になってしまっていた。その上、顔を押し付けていた肩口は濡れて色濃い染みがついている。
「……すみません、みっともないところをお見せしました」
俯いていたのは、泣いていた顔を見られたくなかったからということ以上に、気恥ずかしかったからだ。
「一ノ瀬、」
頬に触れた温かな手が、その優しげな仕草とは対照的に少々強引に顔を引き上げる。まっすぐにこちらを見遣る目は以前と変わらない。その事実に再び目頭が熱くなる。
「ああ、目が腫れているな。濡れタオルを持ってきてやろう」
目の縁をそっとなぞる親指が、ゆっくりと離れる。先ほどまで一番近いところで温もりを感じていた身体が、遠ざかってゆく寂しさに我知らず手が伸びてしまった。思わず掴んだ彼の服の裾が伸びて、彼がその反動で振り返る。しまったと思った時には彼がこちらを見て目を丸くした後だった。子供じみた行動に慌てて手を離したが、彼は気を悪くした風もなく、優しげに笑って、まるで幼い子供をあやすように頭をひと撫でされてしまった。
「大丈夫だ、すぐに戻ってくる。少し待っていてくれ」
言葉通り、すぐに戻ってきた彼は手にしていた濡れタオルをそっと私の顔に押し当てた。ひんやりとした感触が火照った目許に心地良い。落ち着いてきたこともあるのだろう、冷静になって考えてみるとあんな風に泣いて取り乱してしまったことが酷く恥ずかしい。それに、泣いたせいだろうか、頭が痛い。目許を冷やすための濡れたタオルを、無意識のうちに額へと当たるように顔を動かしていた私を見て、彼が訝しげな顔を向ける。
「どうした? 具合が悪いのか?」
「いえ、泣いたせいでしょうか、少し頭痛が、」
躊躇いなく伸ばされる手が髪をかきあげて直接額へと触れる。
「ああ、少し熱っぽいな。もう休んだ方が良い」
それはつまり、彼は家に帰ってしまうということだろう。今夜はずっと側にいて欲しかったのに。
ああ、どうも先程から思考が子供っぽくなっていけない。自分にも彼にも仕事があるのだから、自分のわがままで困らせてはいけないし、なにより体調管理も仕事のうちだ。だから、彼の言う通りにしなければと思うのだけれど、どうにも今は離れがたい。
そんな考えが顔に出ていたのだろうか、こちらの顔を覗き込んだ彼がにこりと穏やかな笑みを浮かべる。
「ああ、案ずるな、今夜はお前が眠るまでずっと側についていてやるからな」
髪を梳いていた手が、再び前髪をかきあげる。不意に眼前に迫る顔に思わず目を瞑れば、一拍置いて額に柔らかで温かな感触。
「早く良くなるおまじないだ」
止まったはずの涙が再びじわりじわりと滲んでしまったのは仕方がないことだと思う。

多分、今日という日は生涯忘れ得ぬ日になるのだろう。
きっと、この先もずっとそんな日が積もってゆくに違いない。そうして、真っ白な雪がすべてを白く染め上げてしまうように、嫌だった記憶も忘れたい過去もいつか覆い尽くしてしまうのだろうか。辛かった日々の出来事もいつか笑って話せる時が来るのだろうか。

この先、積もり重ねてゆく日々が少しでも良いものでありますように。



(それから、出来ることならば、その時は私の隣りにあなたがいてくれますように──。)