「真斗さん、面白いものを見つけたんです」
 珍しく息を弾ませながら帰宅したトキヤが上着も脱がずに真斗の元へと歩み寄る。そうして手にしていた書店の袋から結構な厚みのある雑誌を取り出した。それは、テレビCMで良く見かける結婚情報誌だ。
 デビューしてから数年。お互いそれなりに知名度も上がり、ありがたいことに途切れることなく仕事をもらえている状況だ。もちろん、結婚の予定などない。そもそも男同士だ。
「誰かが出ているのか?」
 モデルとして知り合いが掲載されているのかと首を傾げて問うが、トキヤは違いますよ、とやはり上機嫌なまま首を振った。
「付録で妄想用婚姻届がついているんですよ。面白いことを考えますよね」
 そう言ってトキヤはぱらぱらと雑誌を捲り、間に挟まれていた一枚の紙切れを真斗に見せた。
「……妄想用?」
 真っ白な紙にえんじ色のインクで印刷された書類。本物の婚姻届すら見たことがない真斗だったが、理想の献立やら、毎日のキスの有無やら、本物の書面にはあるはずのない遊び心にとんだ項目に、一目でそれが本物ではないと分かる。
「なかなか凝っているな」
 関心するように真斗が呟けば、でしょう? とトキヤが笑みを浮かべる。
「折角ですから、書きませんか?」
 いつもの大人びて落ち着いた表情ではなく、年相応の少し悪戯な笑みを浮かべたトキヤにつられるように、真斗の顔にも笑みが浮かぶ。そうだな、と真斗も頷き返し、ふたりで紙面を覗き込んだ。

「……まずは付き合い開始、か。一ノ瀬、覚えているか?」
「時期は覚えてますけど、日付までは……」
 首を傾げてトキヤを見遣る真斗に、トキヤも首を傾げながら言葉を返す。ふたりともあまり日付にこだわりがなかったため覚えていない。
「ならば空欄でいいか」
「そうですね。……次は、きっかけ、ですか」
「一番最初のきっかけと言えば一十木を交えて話をした時だろうか」
「ふたりで話をするようになったのは図書館で会ってからでしたよね?」
 トキヤの言葉に、ふむ、と真斗が口元に手を当てて考え込んだ。
「いかんせん、知り合ってから話すようになるまでの期間が長かったからな、どれがきっかけになるのか良く分からんな」
「とりあえず、ここも空欄でいいんじゃないでしょうか
「そうだな」
 曖昧な箇所に時間を掛けずに先に進もうとするのはどちらも同じらしい。それよりも、その先の項目を埋めるのが楽しみだったというのもあるのかもしれない。

「次は『この届書を記入する前に、ふたりの間に右記の七項目があるか必ずご確認ください』愛情、信頼、思いやり、覚悟、責任、忍耐、労い、」
「どれも問題ないですね」
「ああ。本当に、お前は俺には勿体ないほどの男だ。一ノ瀬、感謝している」
「それはこちらの台詞ですよ」
 ふふっ、と笑って顔を見合わせて笑う。それだけで満たされた気持ちになるのだから、なんだか嬉しい。

「次は、……プロポーズはまだだな」
 真斗の言葉に、トキヤがそうですね、と返事をする。元々男同士で結婚が出来ないのだから、プロポーズも何もあったものではないのだが、残念ながら、ここにはそれを問い質すものはいない。
「……では、」
 すうっとトキヤが息を吸い込む。それは、トキヤが改まって何かを言う時の癖だ。
「待て、一ノ瀬、俺に言わせてもらえないだろうか」
「私だって言いたいんですよ」
「しかし、俺とて……」
「ああ、でも、折角のプロポーズですから、もっとムードのあるところで言いたいですね」
「む、それもそうだな」
「プロポーズはお預けにしておきましょうか」
 くすくすとトキヤが笑う。真斗もそれに頷いた。

「次はいよいよ署名か。しかし、失敗してはいかんな。鉛筆で下書きをしよう」
「念のために三冊買ってきましたから、書き損じしても大丈夫ですよ」
 にっこりと笑って得意顔をするトキヤに、真斗は面食らってしまった。
 乱読家のトキヤは本屋に行けばいつも大量の本を購入してくるから気がつかなかったのだが、確かに、書店の袋はあのぶ厚い雑誌があと二冊は入っていそうなほどに膨れている。真面目なトキヤは金銭面もしっかりしていて、無駄なことを嫌う傾向があるのに、たまに変なところで妙なものを買い込むことがあるな、と内心思うものの、多分きっとトキヤなりに、なにか考えがあるのだろうと思えば、何も真斗には言える言葉はなかった。
 まあ、今はそれよりも。
 再び目の前の書類に目を落とし、愛用の筆箱から鉛筆を取り出した真斗が、ぴっと姿勢を正して下書きを始める。……が。
「そちらに書くんですか?」
 何の迷いもなく、左側の夫の項目に名前を書き始めた真斗にトキヤが少し拗ねたような物言いをする。
「……いけなかったか?」
「いえ、別に構いませんが」
 とは言うものの、明らかに不満げだ。
「仕方ないな、」
 真斗は溜め息を飲み込んで、右側の欄の妻の文字を二十線で消すと、その横に丁寧な字で夫と書き直した。
「これでいいだろう?」
 どこか達成感のある晴れやかな顔で告げられては、トキヤには何も反論はできなかった。
「……はい」
 複雑な表情で頷くトキヤを気にも留めずに、真斗はその先の項目へと進む。
「この相手の呼び名の項目だが、ハニーだのダーリンだの言っているのは神宮寺くらいなものだと思ってたのだが、意外と一般的なのだろうか」
「……まあ、世の中広いですからね、」
「……そうだな。そういうことにしておこう。お互いの 呼び方は今と変わらずで良いだろうな」
「そうですね、でも、できればふたりきりの時には名前で呼んで欲しいですが」
 トキヤが真斗の顔を覗き込んで、ねぇ、真斗、と低い声で名を呼んだ。
 それだけで顔を赤く染めて目線を逸らせてしまった真斗を更に追い詰めるように息が触れるほどに顔を寄せて、再び真斗、と名を呼ぶ。
「あなたはトキヤと呼んでくれないんですか」
「……トキヤ」
 真斗は消え入りそうな声でそう言ったものの、それは呼びかけではなく最早独り言に近い。けれどトキヤは良く出来ましたと幼子にするように真斗の頭を撫で付けるから、真斗はくすぐったくて仕方がなかった。
「慣れぬと何やら気恥ずかしいものではあるな」
「慣れていきましょう」
 ね、と顔を覗き込みながら言われて、真斗は赤い顔のままゆっくりと頷いた。

「その次は理想の献立、ですか。といっても、あまり食べ物自体にはこだわりはないので、カロリーがしっかりと計算されてバランスがとれた食事なら何でも美味しく頂きます」
「そうか、俺は朝は和食がいいな。それから一日一個はメロンパンを食べたい」
「駄目ですよ、太ります」
「理想の献立なのだから良いだろう?」
「駄目です。太ったら仕事がなくなりますよ」
「ならば、家でおさんどんをしながらお前を帰りを待っていようか」
 真斗の言葉にトキヤは真斗の顔を見返した。少しだけ、そんな生活に憧れがあった。だけど、それは真斗の夢を奪ってしまうことになるということだ。そんなことを一瞬でも考えてしまった自分をトキヤは恥じた。
「まあ、それは冗談だが、けれど、お前が望むのならば、出来うる限り、お前の部屋でお前を待っていよう」
 だから、そんな顔をするな、と真斗がトキヤの顔を覗き込む。彼の前では感情を隠す事もままならない。

「次に進もうか。……次は、休日のふたりの過ごし方か」
「……まったり、ですね」
「だな」
「暖かい日差しの差し込む部屋の中で好きな音楽をかけながらゆっくり読書、というのもいいですね」
「そうだな、とっておきのお茶を煎れて、隣りにはお前がいて」
 どちらともなく顔を見合わせてふたりで笑う。
「いいですね次のオフはそうやって過ごしましょうか」
「晴れれば良いのだがな」
「天気が悪くたってあなたがいればそれで十分です。他には何もなくても」
「それでは本末転倒ではないか」
「そうでしたね。でも、あなたがいてこそ、でしょう?
 結局はそれに尽きる。きっと相手がいなければ折角の休日もつまらない。

「次は、帰宅したとき、か。帰宅時間もまちまちだからな、食事も済ませてくることも多いが、風呂と言うわけでもないし、」
「まずはキスでしょう?」
「今日はなかったな」
「それは、失礼しました」
 トキヤが真斗の顎を引き寄せて触れるだけの口づけを落とす。可愛らしいリップ音を残してすぐに離れるとばかり思っていたそれは、予想に反して再び真斗の口に近づいて、ぬめる舌が僅かに開いた唇の隙間から咥内へと侵入する。顎に添えられていたトキヤの指が、猫にそうするように真斗の顎下をくすぐって、そのこそばゆさに、真斗が思いっきりトキヤの身体を押し返した。
「一ノ瀬……! 今は、」
「そうですね、こちらは後のお楽しみに取っておきましょうか」
 くすくすと笑うトキヤの視線から逃れるように真斗は書類に目を落とした。けれど、その下にあるのはまさに今していた行為についての項目で、思わず真斗の顔に朱が走る。
「キスの有無ですか。それはもちろんあるとして、回数ですよね」
「改めて意識してみると回数などいちいち覚えてないから分からんな」
「朝起きた時に一回、家を出る時にも一回、帰って来た時にも一回、寝る前に一回、それから何もなくたってキスはしたいですから、最低でも一日五回くらいでしょうか? 仕事柄毎日会えるわけではないですからね、本当は一日五回でも足りないくらいではありますが」
 先ほどと同じ意地悪な笑みを浮かべてトキヤが真斗に視線を向ける。
「……それは、お前に任せる。好きにしろ」
「おや? 好きにしても良いんですか? ……では、」
 トキヤが再び真斗にキスをしたことは言うまでもない。

「……次は、同居を始めたときの決まりごと、ですか。まだ同居はしてませんが、これだけ一緒にいると半分しているようなものですね」
「ああ、部屋が隣同士だと便利だ。それにお前と一緒にいることが、まったく苦にならない」
「ええ、あなたとなら同居しても上手くいくと思います」
 音也と同室だったときは本当に大変でしたから、とトキヤが大きな溜め息を吐いた。その様にくすくすと真斗が笑う。
「そうか? お前は存外に喜んでいたように見えたぞ?」
「そんなことはありません。でも、まあ、頼られるのは嫌ではありませんから。…度が過ぎなければの話ですが」
 取り繕うように付け足された言葉だが、その実それが本心なのだろうというのは分かりすぎるほどに分かった。
 トキヤは器用に何でも簡単にこなしてしまうようでいて、こういうところが実に不器用だった。そこが愛おしくもある。
 くすくすと未だ漏れる声にトキヤが軽く真斗を睨む。目許が赤いのはうっかり本心が出てしまった恥ずかしさのためか。いつもトキヤは余裕の体で、どちらかというと翻弄されるばっかりであった真斗だが、時折こういう顔を見せられるとつい苛めてしまいたくなる。
「なにが可笑しいんです?」
「いや、可愛らしいと思って」
 尚も笑う真斗にトキヤが口をへの字に引き結ぶ。それは彼のむくれる時の癖で、いつもの澄ました顔とはあまりに正反対な子供っぽい表情に笑みがこぼれる。けれど、彼は子供でもなければ、余裕のある大人でもない。これ以上へそを曲げたら仕返しが怖い。
「すまない、苛めすぎたようだな」
 先ほどトキヤにしてもらったように頭を撫でで、傾いてしまった機嫌を元に戻そうとしてみるも、それすらもからかわれていると思ったのだろうか、あとで覚悟なさい、とトキヤが艶を含んだ表情で笑う。それは、仕置きなのか、真斗を喜ばせるだけなのかは多分、ふたりだけしか知らない。

「家事の分担は、これもやはり、できる者がやる、ということになるな」
「そうですね、一緒にいられる時間はそう多くはないですからね」
「下の項目の記念日の過ごし方もそうだな」
「ええ、こればっかりはどうにもなりませんから。まあ、仕事がもらえるだけ本当に有難いんですが」
「ああ。こうして考えてみるとやはり、この職業は世間一般の仕事とは違うのだと思い知らされるな」
「そこが、魅力でもあるのでしょうけど。それに、自ら選んだ道ですからね」
 そうだなと、ふたりで頷いて同じような仕草で紙面に視線を移す。気がつけば、もう最後の項目になっていた。

「最後は、老後の過ごし方、ですか」
「五十年後、六十年後、皆どうなっているのだろうな。一ノ瀬は演技力があるから、きっと老いても大御所俳優と呼ばれてスクリーンで活躍しているのだろうな」
 真斗が笑みを浮かべる。その表情はまるで夢でも見ているかのように穏やかだった。
 けれど、十年後、二十年後の自分すらうまく想像できないというのに、半世紀も先のことなど全く想像ができない。それこそ夢物語だ。
 真斗の言うように、ずっとこの業界で仕事が出来れば良い。しかし水物の職業故に全く先が見えないのも事実だった。些細なことで業界を干される可能性だってある。何より、いつまでもアイドルのままではいられない。
 明確な年齢制限はないけれど、この先もこの業界で生きていきたいならば歳を取るにつれて立場も変えていかなければならないだろう。青年を演じていた役者が親の役を経て、そうしていつか老人の役をこなす。その途中で役者という舞台を降りる者もまた多いに違いない。
「そうなれればいいのですが」
 そうなるためには、たゆまぬ努力が必要だろう。もちろん、この業界では運も必要なのだけれど、横のつながりが強い業界だからこそ、努力次第でその運も引き寄せられると思うのだ。
「ああ、きっと一ノ瀬ならば出来ると信じているぞ。……俺は、どうだろうな。俺もそうなれれば良いのだが、もしかしたら聖川の総帥に収まっているかもしれん」
 真斗の言葉に不意に現実に引き戻される。今こうしてなんの不思議もなく隣りにいるけれど、彼は世界有数の財閥の御曹司で、跡を継ぐべき嫡男だった。本来、自分が肩を並べられるような人間ではない。
 父は俺に跡を継がせるのは諦めたらしい、と彼自身から聞いたのは一年ほど前になる。真斗の父親である聖川財閥の総帥が倒れ、そのために真斗は一時的に家に戻り、混乱していた家内をまとめようと尽力していたという。
 彼とはひと月以上も連絡が取れなくなり、事務所からも解雇寸前だった。そんな折、唐突に目を覚ました彼の父親に、開口一番、お前は自分のいるべき場所に戻れ、と一喝されたのだという。
 久方ぶりに戻ってきた彼はどこか吹っ切れたように晴れやかな表情をしていた。迷いも不安も、何かに遠慮していたようなところも、すべて一緒に消し飛んだのだろう、その後の活動もそれまで以上に精力的になり、そうして今ではテレビで見かけない日がないぐらいに有名になっていた。自分も彼に負けないようにと多少無理なスケジュールを組んでいたことは今でも彼には内緒だ。
 そんな経緯があったから、彼はずっとこの業界でやっていくのかと思っていたが、それでも彼は聖川の家の人間であって、きっと、ことが起こればあの時のように家に戻るのだろう。それは少し寂しいことだけれど、仕方がないことなのだ。
「一ノ瀬、どうした?」
 急に大人しくなったトキヤの顔を真斗が覗き込む。
「いえ、少し、先のことを考えていました」
 本当は、不確定な未来に思いを馳せるのはあまり好きじゃない。ずっとこのままでいられれば良いと思うのに、時の流れはずっと同じであることを許さない。永遠を誓い合った両親がそうであったように、きっと私たちも同じではいられないのだろう。変わらないように見えても確実に変わっていく。良くも悪くも。
「一ノ瀬が、これを書きたかったのは何のためだ? ただ面白そうだったからだけか?」
 真斗が机の上の婚姻届を模した書類を指先でとんとん、と軽く叩く。詰問するような言葉だったが、その口調はどこまでも穏やかだった。
「お前は目に見える証のようなものが欲しかったのだと思ったが、違ったか?」
 例えば、もしも男同士で結婚ができたとして、法の上で結ばれることができたならば、例えば、子供を授かることができたならば、こんなにも不安になることなどなかったのだろう。今の自分が、彼を繋ぎ止める術などあるのだろうか。
 だから、冗談でもいい、確固たる絆が欲しかった。男同士だとか、身分が違うだとか、お互いに日本中に顔が知れていてプライベートなどあってないような身分で、分かっていたことだけども、しがらみは思った以上に多くて、好きなものを好きだと大声で叫べないもどかしさが、胸の中で燻っていて、いつの間にかそれがまたしがらみになっていくような閉塞感が常に纏わりついていた。
 持て余した感情をどこにも吐き出すことが出来ずに、この胸に巣食ったそれは灰色に色を失って姿形さえも分からなくなってへどろ状になって折り重なっていくような感覚が一番近いかもしれない。
「……そうです、私は、あなたを繋ぎ止める術が欲しかったのかもしれません。私は、わがままで、利己的で、実は結構口も悪くて、欠点だらけの人間です、だから、」
 こんなにも醜い感情を吐露するには彼はあまりにきれい過ぎて躊躇ってしまったが、一度流れ出したものは止めることが出来なかった。彼の言葉を借りるならば、ダムが決壊したとでもいうのだろうか。
「一ノ瀬、あまり俺を見くびらないで欲しい。そんなこと、とうに知っている。知っていて、お前と共にいることを選んだのだ」  黙ってトキヤの独白に耳を傾けていた真斗は、けれど、なんでもないような顔をしてそれを受け止めた。そんなことか、と笑ってさえいる。
「お前を、不安にさせてしまったことはすなまなかった」
 俺の言葉や、態度が足りなかったのだな、と真斗が目を伏せる。ああ、そうではない。彼からは数えきれないほどの言葉も、愛情ももらっている。自分がひとりで勝手に不安になっているだけだということも分かっている。
 どんなに言葉を重ねても、身体を繋げても、いつかは無くなってしまうものもあるのだろう、今が幸せだから、幸せであればあるほどに不安になるのだ。
「確かにお前は、狭量なところはあるし、人によって態度が変わるし、人の目のないところでは結構大雑把だったりするが、俺は、そういうところもすべてひっくるめて一ノ瀬トキヤが好きなのだ。お前は知っているだろう? 聖川真斗という人間が、たとえ冗談であろうと好きでもない人間と婚姻届に名前を書けないような人間だと」
 真斗がトキヤの目を真っ直ぐ見て言う。
「嬉しい、のですが、……なんだか素直に喜べませんね」
 あなたの前では格好良くありたかったのですが、とトキヤが複雑そうな表情を受かべるのを見て、 だからお前は狭量なのだ、と真斗が笑う。
「だが、俺だけがそんな一ノ瀬トキヤを知っていればいい」
 伸ばされた腕に抗わず、トキヤはされるがまま真斗の腕の中に収まった。そうして、くすくすと声を立て笑う。
「あなたも、随分と独占欲が強くなりましたね」
 出会ったばかりの頃の真斗は、どちらかというと他人の意思を尊重しようとするあまり、自分を押し殺している部分があった。それは、彼の生まれ育った環境のせいなのかもしれない。けれど、この業界に入ってからは、良い意味で自己主張が強くなったところがあった。それとも、独占欲が強くてわがままな私の性質にあてられたのか。どちらにしろ、好きな相手の嫉妬や独占欲は、それだけ好かれているのだと思えるから、嬉しい。
「……俺を嫌うか?」
「まさか」
 好きですよ、好きです、愛してます、何度も言葉を繰り返す。それでもこの気持ちの十分の一も伝わらないような気がする。まだ、足りない。
「あなたは、どれほど私があなたのことが好きなのか、もっと思い知れば良いんです」
 真斗の背に腕を回して、首筋に鼻先を擦り付ける。まるで猫になったような気分で甘えると、真斗がくすくすと笑いながら、優しく頭を撫でてくれるから、更に強くその身体を抱き締める。気持ちという目に見えないものが、こうして触れることで少しでも彼に伝われば良いのに、と本当に思う。
「その言葉、そっくりそのままお前に返そう」
 こちらの顔を覗き込み、真っ直ぐに目を見つめて真斗が言葉を返した。
 そうしてふたりで顔を見合わせ、笑い合ってキスをする。この先もずっと、そんな日が続けばいい。



 翌日、書き上げたふたりの妄想婚姻届は、誰の目にも触れること無く、トキヤの部屋のチェストの引き出しに大切に仕舞われた。

 いつまでも、ふたりで一緒にいられますように、という願いとともに――。






ひとひらの幸福(レン春)


「ダーリン! 見てください! これ、一ノ瀬さんから頂いたんです!」
 ハニーが両手で掲げるようにオレの目の前へ差し出したのは結婚情報誌だ。
 もちろんいつかは法の上でも結ばれたい、そう思っているのだけれども、まだ駆け出しのアイドルの身では結婚など夢のまた夢。人気が安定して、収入だってそれなりになって、公私ともにある程度余裕ができてから、と考えていたのだが、こうして雑誌という形であれ具体例を目の前に出されてしまえばその決意も揺らいでしまいそうだ。
 けれど、それにしてもどうしてイッチーなのだろうか? 同期の中では、結婚、という言葉からは一番遠い人物だと思っていたんだけど、と思いながら顔を近づけて雑誌の表紙に目を走らせる。
「? イッチーが載ってるのかい?」
「そうではないみたいなんですが、余ったからって」
 ハニーもよく分からないらしく首を傾げている。撮影か何かで使ったものをもらって来たのだろうか。けれど、今はそんな疑問よりも目の前で雑誌を捲りながら目を輝かせているハニーの方が重要だ。
「一生に一度の結婚式だ、今からプランを練っておくのも悪くないね」
 とハニーにウインクを飛ばせば彼女が真っ赤な顔をして俯いた。意図はいまいち掴めないけれど、ここはありがたくもらっておこう。イッチーもたまにはいいことをするじゃないか、と彼女の細い肩を抱き寄せて、ソファへと誘う。
 ふたりで身体を寄せあってぺらぺらと雑誌をめくる。今話題の式場や人気のプラン、それに新作のドレスや流行の髪型や小物類まで、これ一冊あればこと足りるくらいの情報量に舌を巻く。それに、雑誌に載るだけあって、どれも魅力的だ。
「これだけあると迷っちゃうね」
「そうですね、でも私はダーリンと一緒ならどれでも、」
 そう言ってこちらを向いて幸せそうに笑うから、こちらまで嬉しくなってしまうじゃないか。幼い頃、縁日の日にジョージに強請ってようやく買ってもらった甘くてふわふわの綿菓子。あの時俺にはあれが幸せの象徴に見えたんだ。けれども、いまはきっとそんなものはいらないね。だって、すぐ隣りにこんなにも幸せの象徴がある。
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」
 頼りないほどに細い肩を抱き寄せて、綿菓子よりも甘くてふわふわで飛びっきり良い香りのする髪へ口づけを落とす。眼下から聞こえるくすくすという密やかな笑い声も鼓膜に馴染んで溶けてゆく。オレの身体までもが砂糖菓子のように甘くなっていくような気がするからおかしいね。
「あれ? 何でしょう、これ」
 ハニーが目に留めたのは、雑誌に挟まった一枚の紙。婚姻届を模したそれには妄想用婚姻届と書いてある。
「へぇ、良く出来てるね」
「面白そうですね」
「書きたい?」
「はい!」
 あ、私、何か書くもの持ってきますね、とぱたぱたと可愛らしい足音を立てて遠ざかる背を見送って、レンは再び手元の紙に視線を落とした。
 本当に最近の雑誌は凄い。特に女性誌では豪華な付録がついていて、付録目当てで買うというのだから、上手いこと売り出したものだ、と思う。
 例えばこの雑誌だって、他の雑誌に比べたら付録としては少々見劣りするが、この妄想用婚姻届を目当てに買った層もいるかもしれない。
 そこで不意に、ハニーがこの雑誌をもらったと言う相手を思い出した。
 余った、ってことは何冊か買ったということだろう。
 何のために? 雑誌の内容を見るだけならば一冊で十分なはず。つまり、数が必要なものがあったということだろう。例えば、この妄想用婚姻届のような、使ったらなくなってしまう、消耗品のようなもの、とか。
 そこまで考えて頭を振る。
 あのふたりは、外見だって性格だってどこも女性的なところはないのに、なぜかふたり揃うと、それが女性特有の雰囲気を醸し出すから不思議だった。それは、じめじめとした陰湿なものではなくて、どちらかというと、まるで少女が夢を見るような初々しさすらあった。
 そんなふたりが顔を突き合わせるようにしてこの書類を書いていたのだとしたら、何とも妙な構図だった。けれど、その姿は容易に脳裏に思い浮かぶ。逆に言ってしまえば、妙なところで生真面目なあのふたりならばやりかねない。大方、話を振ったのはイッチーで、聖川が何の疑問も持たずに乗ったんだろう。
 そう言えば、ここ数日、妙に上機嫌だった元クラスメイトを思い出す。その事実が、オレの推測が正しいのだと裏づけしているようだ。
 ああ、でも、例えばこの紙切れ一枚で、ひと時の幸福に包まれるのだとしたら、それは彼らにとって、とても有意義な時間なのだろう。
「ダーリン、どうしました?」
 ペンを手にしたハニーが訝しげな顔を向ける。
「なんでもないよ、色々考えていたんだ」
 ハニーとの将来のことをね、と隣に腰を落ち着けた彼女の腰を抱き寄せ膝裏を掬って、横抱きの体勢のまま自らの膝の上に座らせる。
「ダ、ダ、ダーリン……! これじゃ書けません……!」
「オレが書くから良いよ、ハニーは見てて」
「駄目です! 私も書きたいです」
 そう言って可愛らしく息巻くハニーの鼻先にキスをひとつ落とす。真っ赤な顔をしてあわあわと取り乱す姿があまりに可愛くて、少しだけ苛めてしまいたくなる。
 けれど、それはあとでのお楽しみだ。今はこちらの書類を埋めるのが楽しみだった。それは、彼女も同じなのだろう、待ちきれないとでも言うように、ちらちらと横目で書類を見る姿が、その心情を表しているようだった。

 たかが紙一枚、されど紙一枚。
 たったそれだけで、ひとひらの幸福が得られるのならば、それはある意味すごいことなのかもしれない。
 そうしてそれは、きっと自分たちも例外ではなく。これから先の幸福な時間を思いながら、レンは腕の中の愛しい温もりを抱き締めた。