真斗が家に帰り着いたのは、既に日付も変わろうかという時刻だった。
日を跨がないだけまだましな方だろうか。いや、今は仕事があるだけ感謝しなければ。
しかし今日は疲れた、と真斗は大きなため息をついた。
午前中は自宅で次に出演するドラマの台本を読み込み、昼過ぎからは神宮寺とふたりで表紙を飾る雑誌のグラビア撮影と対談形式の取材、その後、簡単な夕食をすませ、夜からはバラエティの収録。基本的に二本撮りだから、それなりに拘束時間は長い。
もちろん普段だってこの程度のスケジュールならば普通にこなせている。けれど、今日はいつもと違うことがあって、そのどの現場でも失態を晒してしまった。
ミスをしたというわけではない。今日は所謂エイプリルフールというやつで、俺は端から嘘をつかれていた、というよりもからかわれた、と言った方が正しいだろうか。もちろん簡単に騙されてしまう自分も悪いのだが。
最後の方では妙に疑り深くなってしまい、それがまた彼らの笑いを誘っているようだった。あまりいじられるのは慣れていないから、どういう返しをしたら良いのか分からない。それに、自分では真面目にやっているつもりなのに笑われるのは心外だ。しかし、逆に考えてみれば、こうやっていじられるのは決して悪いことではないのだ。
シャイニング事務所に所属してから数年。この業界には慣れてきたつもりでいたけれども、まだまだだ。精進しなければな、と再び大きな溜め息を吐きながら、いつもよりも重たく感じる身体をソファに沈めたところで、不意に電話が鳴った。こんな時間に電話が鳴るのは珍しい。一体誰だろうかと、慌てて鞄から携帯を取り出すと、見慣れた名前がディスプレイの小窓に表示されていた。
表示されている名前は、同期でもあり、早乙女学園時代から仲が良かった一ノ瀬トキヤだ。
基本的に一ノ瀬は22時以降は電話など掛けて来ないし、どうしてもそれが必要な場合は、電話を掛けても良いかというメールを先に寄越す。明日は朝から一緒に持っている旅番組のロケがある。待ち合わせの場所も時間も決めてあったはずだが、何か変更があったのだろうか。

「夜分にすみません、今、電話大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。どうしたのだ?」
「……少し、あなたの声が聞きたくなって」
本当に珍しいこともあるものだ。普段あまり人に弱いところを見せない一ノ瀬の気弱な発言を聞いて、俺はソファに座り直した。
「何かあったのか? 俺で良ければ聞くぞ」
「あ、いえ、大したことではないのですが、その、今日、エイプリルフールだったでしょう? 少々騙されてしまいまして」
ちょっと悔しかったんです、と乾いた声で笑う一ノ瀬には申し訳ないけれど、少し笑ってしまった。
「なんだ、そんなことか」
同じようなことで沈んでいた自分のことは棚に上げて、くすくすと笑うと、携帯越しに「そんなことではないです」と少し拗ねたような声音が聞こえてくる。相当酷い嘘をつかれたのだろうか。
「だが、それだけお前が可愛がられているのだろう? 言ってもらえるうちが花だと思うぞ」
「それは、そうですが、騙されていい気はしません」
いじけた子供のような声で今日の出来事を語る一ノ瀬の声を聞きながら、それだけで今日の疲れが消えてゆくようだった。先ほどまではすぐにでも寝てしまいたいと思っていたことすら忘れて、そのまま取り留めのない話に夢中になる。一ノ瀬の声を聞いただけで目が冴えてくるから不思議だった。

そうして、不意に会話が途切れ、少しの間があった。
いつもなら気にならないほどの沈黙が、何故かこの時ばかりはやけに重苦しく感じて、何か話題を見つけなければ、と思案しているうちに、電話の向こうから落ち着いた声が聞こえてきた。
「ねぇ、聖川さん、好きですよ」
受話器越しに聞こえた声音は低く、耳の奥まで絡み付くような熱を持っていた。
電話で良かった、もしも一ノ瀬を前にしていたら、自分はきっと正気を保っていられなかっただろう。それほどに艶を含んだ声だった。
一ノ瀬のことは以前から好いていた。友人としても、それから、恋愛対象としても。
一ノ瀬には嫌われてはいないと思っていたが、けれど思いを告げることなど出来なかった。俺が一ノ瀬に向けている感情と一ノ瀬がこちらに向けている感情が同じ種類のものだとは思えなかったし、自分たちはアイドルで恋愛は御法度、ましてや男同士。だから、そんな淡い恋心なんて叶わないものだと思っていたのだ。
それなのに、今、叶わないはずのそれが、手を伸ばせば触れられそうなほど近くに無造作に置かれている。
けれど、今日は4月1日。エイプリルフールだ。今日は朝から散々それで痛い目を見たではないか。
「……一ノ瀬、お前までそうやって俺をからかおうとするのだな」
神宮寺や一十木ならまだしも、まさか真面目な一ノ瀬がこういったイベント事に便乗するような真似をするとは少々意外だった。しかし、今日一日ですっかり耐性がついた俺は騙されなどしない。からからに乾いた口を必死で動かしてなんとか声を出す。
「しかし、お前は歌だけでなく演技も流石だな」
幼い頃から劇団に所属していたという一ノ瀬は、演技の評判も高く、いくつものドラマや映画に出演している。先ほどの告白も、まるで本当の恋人に向けるような艶のある声音で、先ほどから高鳴りっぱなしの鼓動は今もまだ戻らない。俺は、それを悟られぬように平素を取り繕って矢継ぎ早に声を掛けるだけで精一杯だった。あの熱っぽい声がまだ鼓膜にこびりついている。ほんのわずかでも無言になってしまえば、あの声が再び耳の中でこだまして、自分の抱いていた感情をそのまま吐露してしまいそうだったのだ。
「聖川さん、時計、見てください」
一方的に言葉を紡いでた俺の耳に、再び一ノ瀬の穏やかな声が届く。言われるままに壁掛けの時計を見遣れば、時計の針はてっぺんから少しだけ右に傾いていた。それほど長く話していたつもりはなかったのだが。やはり一ノ瀬との会話は楽しくて、つい時間を忘れてしまう。
「ああ、もうこんな時間なのだな、すっかり日が変わってしまったな」
「ふふ、気がつきませんか?」
まるでいたずらが成功したかのような上機嫌な声音で彼が問いかける。
何がだ、と言いかけて、そのまま言葉を失ってしまった。確かめるようにもう一度時計に視線を向ける。先ほどよりも僅かばかり角度がついた針が変わらずにそこにあって、静かな世界の中で秒針だけが存在を主張するように規則正しくテンポを刻んでいる。
何度見たって、今日はもう既に、4月1日ではなかった。
ならば、先ほどの一ノ瀬の言葉はどういう意味だったのだろうか。耳の奥にすみついた一ノ瀬の声が何度も頭の中をリフレインする。
「今から、会えますか?」
やはり、ちゃんとあなたの顔を見て言いたくて、と一ノ瀬が電話越しに笑う。
「実は、あなたの部屋の前にいます。……ドアを開けてくださいますか?」
頭で考えるよりも先に身体が動いていた。部屋のリビングから玄関までの僅かな距離を足早に進み、玄関のドアノブに手を掛けて、今まさに捻ろうとしたその瞬間。
「もしも、」
その声は、耳に当てていた携帯と厚いドアの向こうから、少しだけずれて二重になって聞こえた。声は、しんとした深夜の空気を震わせ、音を伝える。
「一方的に告げておいて、今更こんなことを言うのはあまりにわがままだとは重々承知しています。けれど、もしも、望みがないのなら、このままドアを開けないでください」
春の夜の戯れ言だと思って、今日のことは忘れてください。あなたとは今まで通り仲良くやっていきたいんです、と言う一ノ瀬の言葉を最後まで聞かぬまま、俺は躊躇わずに玄関の重いドアを開けた。迷いなどなど微塵もなかった。早く一ノ瀬の顔が見たかった。早く一ノ瀬に伝えたかった。
俺も、お前のことがずっと好きだったのだ、と。
閉じられていた空間が開き、冷えた空気が頬に触れる。少しだけ驚いた顔をしている一ノ瀬に向かって伸ばした手は、逆にそのまま引き寄せられて、春の夜の冷たい空気と同じようにすっかり冷えた身体がふわりと俺の身体を包んだ。
「開けてしまって良かったのですか?」
ほんの数秒前まで電話越しに聞こえていた声が、息が触れるほどの距離で鼓膜を震わせる。ふるりと背が震えたのは、寒さのせいか、それとも。
「一ノ瀬、お前が好きだ」
少しだけ距離を取って、正面から自分よりもほんの少しだけ低い位置にある双眸を覗き込みながらはっきりと告げると、目の前の一ノ瀬の顔がほんのりと朱に染まる。
あまり見ることのない表情になんだか嬉しくなって、くすくすと笑い声を零せば、項を引き寄せられて、互いの鼻先が触れる。一ノ瀬のそれはひんやりと冷たかった。一体どれほどこの寒空の下にいたのだろうか。
「あなたに先を越されてしまいましたね」
焦点が合わないほどの至近距離。数センチ動けば唇が触れてしまいそうな距離で、あなたが好きです、と再び告げられる。俺が返事を返す間もなく、やはり鼻先と同様に冷たい唇に口を塞がれてしまった。