日付も変わろうかという夜十一時。
玄関のドアの鍵が開く音が静かな部屋に静かに響いた。
出迎えようと玄関まで出てみれば、普段はきびきびとしていて無駄な動きなんてしないトキヤが、玄関ポーチでもたもたと靴を脱いでいた。色とりどりの花束を片手で抱え、もう片方の手には大きな紙袋を下げている。
「おかえり。随分と大荷物だな」
「ええ、ありがたいことです」
ただいま戻りました、とトキヤが照れくさそうに笑う。
今日はトキヤの誕生日だった。今、主演しているドラマの現場で誕生日を迎えたトキヤは、スタッフや共演者の皆に誕生日を祝ってもらったらしい。食事はいらない、と事前にメールを貰っていた通り、夕食をとってきたようだ。それに、少し酒も入っているらしかった。いつもは外では滅多に酒を口にしないトキヤが、少し酔っているように見える。ちらりと黒い髪の隙間から覗く耳もほんのりと赤く色づいていて、それを証明していた。たくさんの人に祝ってもらってきっと楽しい酒だったのだろう。
「楽しい誕生日になったようで何よりだな」
トキヤから花束を受け取り、花が痛んでしまう前に花瓶に生けようと長さを確認していると、不意に背後からトキヤが覆い被さるように抱きついてきた。色気も何もない、じゃれつくような抱きつき方だ。体重がのしかかって、思わずよろけそうになるのをなんとか耐える。
「こら、いちの……」
「でも、あなたがいませんでした」
少しいじけたような、けれど、泣き出しそうな声でトキヤがぽつりと呟く。
「俺は今日一番にお前の誕生日を祝わせてもらったぞ? それに、今日はもう夜遅いから食事は用意してないが、あとでゆっくり乾杯をしよう」
ぽんぽんとトキヤの頭を撫でる。するとトキヤは嫌々をするようにぐりぐりと頭を擦りつけて更にぎゅうぎゅうと抱きついてきた。
「どうした、一ノ瀬?」
酒のせいなのだろうか、いつもと少し様子が違うような気がする。普段もふたりきりの時は随分と甘えてくるのだが、今日はいつにも増して甘えただ。まるで大きな子供のようだった。
少し強めに力を入れて腕を引きはがすと、先ほどのまでの拘束が嘘のようにあっさりと背中にあった身体が離れてゆく。振り返ってトキヤを見遣れば、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「浮かない顔をしているな?」
何かあったのか?と顔を覗き込むと、トキヤが少し困ったような表情を浮かべる。
「何も、ないです。怖いくらい、順調です。そうです、順調なんです、……でも、本当は、」
トキヤが何かを言いかけて口を噤む。どうしたのかと視線で問えば、彼はその視線から逃げるように、また顔を俯かせた。
言いたくないことなら言わなくても良い、ただ、口にすることで少しでも気が楽になるのなら、なんだって受け止めるつもりでいた。
「そうか、無理に言う必要はない。言いたくなったらいつでも聞くぞ」
両手でそっと挟むようにして頬を撫でると、トキヤが真斗の手の上に自身の手を重ね、きゅ、と口を引き結んだ。
「少し、私の昔話を聞いてくださいますか?」
躊躇いの後に、トキヤがぽつりと言葉を切り出した。真斗は無言で頷いて、トキヤの言葉を促す。するとトキヤは、この話をするのはあなたが初めてです、と前置きを置いてからゆっくりと口を開いた。
「HAYATO、いたでしょう?」
自分が演じていたというのに彼はどこか他人事のように言った。
「ああ、お前が演じていたキャラクターだったな」
妹がお前の出ていた番組が好きで毎日見ていたようだぞ、と言うも彼は少し影のある表情を浮かべたまま黙ったままだった。
「本当は、HAYATOは実在するんです。実際は、いた、でしょうか。私は本当に双子だったんです」
それは、つまり。
不用意に言葉を出してはいけないような気がして、真斗は言葉を発せられないまま、トキヤの次の言葉を待つ。きっと彼にとっても言いづらいことなのだろう、トキヤはひとつ大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。そうして、静かに声を出す。
「今日は一ノ瀬トキヤの誕生日であると同時に、一ノ瀬ハヤトの命日でもあるんです」
水を打ったように静まり返る静かな部屋。真夏の頃だと言うのに、夕方から夜にかけて降った雨のせいか、今夜は随分と涼しい。肌寒いくらいだ。
「ハヤトは産まれて数時間後に亡くなったと、私は聞いています。当時のことは母が何も話さないので、詳しいことは分かりません。ただ、物心ついた時には仏壇の小さな位牌に、お兄ちゃんが眠っているから手を合わせなさい、と言われていたことを覚えています」
それでも、実感がなかったんです。自分が双子であることも、他に兄弟が居たということも、よくわからなかった、と彼は言う。それはそうだろう。赤子の時の記憶など覚えている人間はほとんどいない。
「それでも母がよくハヤトの名前を口にしていたのでハヤトの存在を忘れることはなかったですね。私には他の兄弟がいなかったので、少し、兄弟というものに憧れもありました。そんな私がよりハヤトのことを意識するようになったきっかけは、HAYATOというキャラクターをやってからのことです。オーディションの話を貰った時は驚きました。役名が、伝聞でしか知らない兄と同じだったのですから。これも何かの縁だと思い、私が欲しかった双子の兄をイメージして演じたのです。もちろん、それよりもっとオーバーな演技をしたのですが」
明るくて、元気で、人懐っこくて、皆に好かれていて。当時の私の正反対です。とトキヤが静かに語る。真斗はそれを黙って聞いていた。
「そうしたら、見事に合格。きっと兄が天国から見ていてくれたおかげなんだと思いましたね。もちろん、今でもそう思っています。そうして怖くなるくらい順調にHAYATOは人気アイドルになっていきました。辛いこともたくさんありましたけれど、今ではいい思い出です。本当にいい経験が出来たと思っています」
にこりとトキヤが小さな笑みを零す。それは真斗に語っているのではなく、ハヤトに語っているかのようでもあった。
「だから、一ノ瀬トキヤとしてデビューできた今、たまに思うんです。仕事が充実すればするほど、幸せだと思えば思うほどに、本当はここでこうしているのは一ノ瀬トキヤでなくて、一ノ瀬ハヤトなんじゃないかって」
私は、ハヤトを踏み台にしてしまったのではないか。それは、自分たちが産まれた時と同じで、兄は、私の身代わりになって死んだのではないか、私が兄から何もかもを奪ってしまったのではないか、もしも私でなく兄が生きていたら、もっと違った結果があったのではないか。成功すればするほどに、罪悪感が増してゆくのです、とトキヤが今にも泣き出しそうに顔を歪めて言う。言葉は切れ切れで、言葉をひとつ紡ぐ度に増してゆく痛みを耐えているかのようでもあった。
「今、すごく幸せなんです。隣には愛しいあなたがいて、信じ合える仲間たちがいて、目標となるような素晴らしい恩師や先輩たち、社長。それに、温かい言葉をかけてくれる大勢のファンの方々。念願だった歌手としても活動できて、それ以外にも役者として声を掛けてもらえる。何も不満はないのです。十分すぎるほどです。不満があるとすればそれは自分の力不足です。こんな私が幸せになって良いのでしょうか、私だけがこんなにも幸せで良いのでしょうか? 兄は、ハヤトは怒っていないでしょうか」
不安なんです、とトキヤが消え入りそうな声で言う。
「そんなことはない、ハヤトさんは怒ってなんていないと思うぞ? ハヤトさんにとってはお前は大事な弟だ、その弟が立派になっていく姿を見て嬉しく思わないはずはないと俺は思うが」
いない人間が何を考えているかなんて、どんなに考えたってそんなこと分かるはずはない。要はものの考え方ひとつなのだ。きっとトキヤだってそんなことは分かっているだろう。しかし、一度その思いに囚われてしまったトキヤがそこから抜け出すのは少し難しいのかもしれない。
でも、と言い募るトキヤの頬を両手で挟み込み、至近距離で視線を合わせる。
「お前の双子の兄なのだろう?お前と同じ、心優しいひとだと俺は思う」
「……私は、優しくなんかありません」
目を逸らすトキヤが眉根を寄せる。やはりその顔は泣き出しそうだった。
「お前は優しい。俺が保証しよう。優しくない人間がこんな風に思い悩むはずがないだろう?」
無言のまま俯くトキヤの伏せられた瞼に口づけを落とす。ぴくり、とトキヤの身体が反応を返したが、特に抵抗はされなかった。だから、瞼、眉間、鼻筋、頬、と唇を滑らせていって、そうして最後に辿り着いた引き結ばれたままの形の良い唇にそっと触れるだけのキスをいくつも落として、こつん、と額を触れ合わせる。目の前の伏し目がちの目が瞬きする音が聞こえてきそうなほどの静かな部屋。真斗はトキヤを驚かせないように静かに声を出す。
「お前は幸せになったっていいんだ」
結局、囚われているのは、いつも残された側の人間だ。けれど、それを連れ戻すのも、こちら側の人間に違いないのだ。
「お前がそんな顔をしていると俺が悲しい。それに、お前が幸せでないと、俺も幸せになれないではないか」
戯けたように言えば、ようやく視線を上げたトキヤと目が合った。少し驚いたように瞠目していた目が、くしゃりと歪む。拙いことを言ってしまっただろうかとトキヤの目を見つめ返せば、つい、と顎を持ち上げたトキヤに唇を塞がれてしまう。
「……やっぱりあなたには敵いません」
ようやく笑みを浮かべたトキヤが、吐息だけで、ありがとうございます、と囁いた。真斗の背に腕を回し、僅かに空いていた隙間さえも埋めるようにぴたりと身体を密着させ、トキヤは真斗の首筋に甘えるように顔を埋めた。
「あなたを好きになって良かった」
消え入りそうなほど小さくな声で呟いた声は掠れていて、まるでそれは涙声のようだった。
けれど、真斗はそれに気づかぬ振りをして、そうっとトキヤを抱き締めた。