彼と本の趣味が似ていると知ってから、では互いの持っている本を貸し合おうと提案したのはどちらだったか。そうして彼と本の貸し借りをするようになってから早三ヶ月。その間、私と彼の間で行き来した本の数は両手では足りないほどだった。
 元々ジャンルを問わず本を読むのは好きだし、どちらかと言えば読むのも早い方だとは思っている。それに彼の貸してくれる本はどれも面白く、暇さえあれば本を開いていた。
 けれど、これは本の内容だけが楽しみなのではない。本の貸し借りを口実に彼と会って、その感想を語り合うのもまたひとつの楽しみとなっていた。共に同じ時間を共有できるのが嬉しくて楽しくで、気がつけば寝る間を惜しんで本を読んでいる。もうどちらが目的なのか分からない。
 それから、もうひとつ。
 それは、ちょうど私に急な予定が入ってしまって会う約束を反故にしてしまった日のことだった。彼のクラスメイトであり、私と寮で同室の音也経由で戻ってきた本には、ひと言だけの彼らしい簡潔な感謝の言葉と、また会った時にゆっくり話そう、と言葉が綴られたメモが挟まれていた。それに私が同じように本にメモを挟んで返事を返したのが始まりだった。
 最初は本の関してのひと言を添えるようなものだったのが、そのうちに本の内容に関しての質問に変わり、いつの間にかちょっとしたクイズになり、そうして今日。
 借りたばかりの本を開き、本文よりも先にチェックする箇所がある。表紙を開いてすぐ、本のタイトルと作家名が印刷された一番最初のページと表紙の少し厚い紙の間、そこが、いつもの遣り取りのメモ書きが挿んである定位置だ。そこに、いつも通り紙切れを見つけて我知らず相好を崩す。けれど、彼のきれいな字で書かれたメモには33322という謎の数字。先日貸した本がミステリーものだったからなのだろうか。
「……暗号、でしょうか」
 貸した本には数字のトリックなんてなかったはずだが、それとも今日借りた本に出てくる何かのキーワードなのだろうか。しかし借りた本は歴史ものの短編集だ。きっと私のその推理は外れている。
 首を傾げて紙を手にしてみる。裏にも何も書いていない。5桁の数字、そして3と2の文字。何だろうか、と考えていると、不意にスマートフォンが机の上で耳障りな音を立てながら震え始め、数秒で止まる。クラスメイトからのメールだった。返事を返そうとスマートフォンを手にして、慣れた仕草でタッチパネルを操作していく。元々パソコンを使い慣れていたせいか、同じボタンを何度も押して一文字ずつ文字を打っていく従来の携帯電話の方法よりも格段に文字入力しやすくなった。そういえば彼は長年使っているという年期の入った折りたたみ型の携帯電話だった。メールを打つのが遅いから、できれば電話で連絡をくれると助かる、と連絡先を交換した時に言われたことを思い出す。
 目に留まる33322の文字。
 良くある暗号だ。いわゆるガラゲーというものを手にしなくなってから一年ほど経つが、文字入力くらいならば覚えている。
 33322。頭の中で数字を反芻しながら同時に五十音図を脳裏に思い浮かべる。そうして導き出された文字は。
 思わず取り落としそうになったスマートフォンをもう一度握り直し、メールを打ち掛けだったのも構わずに電話帳を開く。けれどすぐに履歴から辿った方が早いと気がついて、そこから目的の名前を探し、傾いた受話器のイラストが描かれた緑色のボタンを押す。
 コール音をひとつ、ふたつ、と数えながら、高鳴る心臓を落ち着かせるように大きく深呼吸。何も考えずに電話をかけてしまった。なんて言おうか、そんな風に考えていると、五つ目のコール音が唐突に途切れ、次の瞬間、落ち着いた張りの良い声が電話越しに耳に届く。
「聖川さん、今大丈夫ですか?」
 ひと口で捲し立てるように言うと、電話の向こうから、どうした? という声が聞こえた。
「今からあなたの部屋に行っても良いですか?」
『ああ、それは構わないが、一体どうしたのだ? そんなに慌ててお前らしくないな』
 彼の訝しむ声を聞きながら、手にした小さなメモ切れを握りしめたまま席を立つ。寮の部屋の鍵を掛けることすらもどかしく、ドアが完全に閉まったことも見届けないままに足早に駆け出した。目指すドアは同じフロアにある。数十秒で辿り着くだろう。
「どうしてもあなたに伝えたいことがあるんです」
 言いながら、辿り着いた目的の部屋。落ち着かせるように再び深呼吸。そうして、彼の部屋のドアをノックする。人前で何かをする以外で、こんなに緊張したのは初めてではないだろうか。
「一ノ瀬、一体どうしたんだ?」
 ややあって内側からゆっくりと開いたドアの向こうから、驚いた表情を浮かべた彼が顔を覗かせる。未だ携帯を手にしたままの彼をそのまま部屋に押し込めるような形で、強引に部屋に上がり込む。そうして、彼と相部屋である男の姿が見えないことを確認して、ゆっくりと口を開いた。
「好き、です」
「……ああ、暗号の答えか?」
 ぱちくり、と普段の切れ長の目を大きく開いて二三度瞬きした彼は、合点がいったとでもいうように頷いた。  もう解けたのか。流石一ノ瀬だな、と笑った彼は、くるりと背を向けて部屋の奥へと足を向けてしまった。その遠ざかる腕を掴んで引き止める。
「それもですが、私が、あなたを好きなんです」
 すると彼が困ったような表情を浮かべるから、途端に不安になる。自分が彼に向けている想いと同じものを彼も自分に向けていたのだとしたら、それは何よりも幸福なことだ。けれど、そう思っていたのは自分だけだったのだろうか。それとも性質の悪い悪戯か。私の気持ちを知りながら、それを試すようなことをしたと言うのだろうか。
「あなたは、一体どういうつもりでこんな暗号を?」
 ひたり、と彼の目を真っ正面から覗き込みながら問うと、彼にぎこちなく視線をそらされてしまった。睨んでいるつもりはないのだが、気が急いてしまったり、自分に余裕がなくなると口調がきつくなってしまうのは自覚している。
「……まさか、お前が直接言ってくるとは思わなかった。
いや、真に受けるとは思わなかった」
 気づいてくれなければそれはそれで良かった、ただ伝えたかった、俺の自己満足なのだ、と彼がこちらを見ないまま言葉を続ける。けれどそんなことを聞きたいのではない。
「あなたは私をからかってるんですか? 私が、この程度の暗号分からないとでも思いましたか?」
「そうだな、すまない」
 怒っている訳ではないのだが、彼はしゅんと項垂れて小さな声で謝罪を口にする。自分はこんな風に責め立てるためにここに来た訳ではないのに。
「すみません、怒っている訳ではないのです。ただ、あなたの真意を知りたいのです。いえ、あなたと私が同じ気持ちなのだと知って居ても立ってもいられなくなってしまって、自分でもどうしたいのかよく分からないままに来てしまいました」
 私もあなたが好きです、と告げれば、俯いていた顔がもどかしいほどにゆっくりと上がってゆく。ほんのりと赤く染まっている目許が愛おしい。ふと目が合ってお互いにはにかんで笑みを交わし合えば、満たされるような心地になる。彼も同じ気持ちだと思うとそれがまた嬉しかった。
「それで、あなたはこの暗号の答えを言ってはくれないのですか?」
 不意に思い出してそう問うと、彼が首を傾げる。
「もう分かっているだろう?」
「いえ、あなたの口から聞きたいんです」
 先ほどからずっと掴んだままの腕を放さずに言えば、観念したのか暫しの躊躇いの後に彼が重い口を開いた。
「好き、だ」
 ずっとお前のことが好きだった、と告げる彼の静かな声が鼓膜に染み込むように溶けていく。首筋までも真っ赤に染まっている彼に思わず口づけてしまったことは、仕方がないことだと思う。