真斗はトキヤとふたりで事務所併設のレコーディングブースに来ていた。
この度、ふたりで旅番組を持つことになり、そのテーマ曲をふたりで作れ、という事務所からのお達しだった。

誰かとふたりで旅に出たくなるようなロマンチックな曲なんてどうかしら? というかつての恩師のひと言で、この曲のテーマは恋の歌、ということに半ば強引に決まってしまった。
同期の作曲家が手がけた出来上がったばかりの曲を聞けば、春の風のように軽やかな曲に仕上がっている。成る程、確かにふらりと外に出たくなってしまうような暖かくて、優しい曲だ。
あとはこの曲にふたりで考えた歌詞を乗せるのだが、それなりに忙しい日々を過ごしていた真斗とトキヤは、なかなか一緒の時間を取ることが出来ず、あまり日もないこともあって、結局各々で歌詞を考え、その良いところを繋ぎ合わせて仕上げるということになった。

真斗は少しでも空いた時間を見つけると、楽譜を取り出して、少しずつ歌詞を書き込んでいった。
恋の歌、と聞いて真斗が一番最初に頭に浮かんだのはトキヤの顔だ。
この曲を一緒に歌うのだから、なんらおかしいことはない。
恋の歌というテーマで、彼は一体どんな歌詞を書くのだろうか、一体誰を思い浮かべるのだろうか。そこまで考えて、筆が止まる。きっと、その先は考えてはいけない。
気がつかない振りしてその疑問を胸の奥底へ仕舞い込む。それなのに、その取れない小さな棘のような感傷が、ずっと真斗の胸に引っかかっていた。

それから数日後、ようやくふたりで揃って時間が取れ、ちょうど空いていたレコーディングブースで打ち合わせをすることになった。
「歌詞をまとめる前に、お互いの作った歌詞で歌ってみましょうか」
そう提案したのはトキヤだった。
同じ曲とはいえ、歌詞が変わればメロディラインのリズムが変わることも少なくはない。だから、まずは互いの曲を聴いて、メロディラインをしっかりと決めてしまおうということなのだ。
では真斗さんから先にどうぞ、とトキヤに促されるままに真斗は、ブースの重いドアをゆっくりと開けた。
スタジオを金魚鉢と呼ぶのだと知ったのは、早乙女学園の授業で初めてレコーディングブースという施設に足を踏み入れた時だった。その言葉に妙に納得したのを良く覚えている。
完全防音のブース内からは、透明なガラスの向こう側のコントロールルームが良く見えるのに、音だけが遮断されている。自分の立てる音すらも耳を覆うヘッドフォンに遮られ、ヘッドフォンを通してマイクから送られる声だけが自分とガラスの向こう側を繋ぐ唯一のものだった。無音の空間に閉じ込められた自分は、まさに金魚鉢の中の金魚だ。
機材の準備が終わったのか、トキヤが顔を上げて小さく頷いた。こちらも頷き返せば、ヘッドフォンから軽やかなイントロが流れ始める。
この瞬間はいつも落ちつかない。高揚にも不安にも似た妙な緊張感が身体を包む。
手元に目を落とせば、歌詞が書き込まれた楽譜が見える。それは、何度も歌詞を書き直したせいで、薄く灰色に汚れていた。
トキヤのことを考えながら作った歌詞だった。いや、彼のことを考えない日などなかった。
例えば、料理が上手く出来たとき、例えば、新しい服を買ったとき、例えば、髪を切りに行ったとき。彼は一体どんな反応を返してくれるのだろうかと、そんなとき決まって優し気に笑みを浮かべるトキヤの顔が思い浮かぶのだ。
ふと顔を上げれば、小さく笑みを浮かべているトキヤと目が合った。いつもの優しい笑みだ。目を閉じても容易に脳裏に思い描くことが出来る。
多分、恋、というのはこういうことなのかもしれない、と思った。
そのトキヤの微笑みに背中を押されるように、真斗は音楽に恋の歌を乗せて歌い始めた。水の代わりに無音で満たされていた金魚鉢の中に自分の声と想いが、広がってゆく。
分厚い透明なガラス越しの今なら、この歌詞に込めた想いも、まっすぐに伝えられるような気がしていた。

「どうだっただろうか?」
ブースの扉から出ると、にこりとトキヤが笑顔で出迎えてくれた。
「とてもあなたらしくて良い歌詞だと思います。……それと、少し、羨ましくなってしまいました。あなたに、あんなにも真摯に想ってもらえる相手の方のことが」
「……それは、どういう、」
「では、私も歌ってきます」
結局問いかけは、最後まで言えずに空中分解してしまった。
「お前の歌詞も楽しみにしているぞ」
代わりに、ブースへと向かうトキヤの背に声を掛ける。すると、今度は彼はこちらを振り返り、いつもより少しだけ意地悪な笑みを浮かべて言った。
「私の歌詞は、金魚に恋をしているという歌詞なんです」
「金魚?」
首を傾げて問い返すと、彼が、ええ、と頷いた。
「スタジオを金魚鉢と呼ぶことを知っていますか?」
それだけ言うと彼は、やはりこちらの返事を聞かないまま、ドアの向こうに消えてしまった。
ガラスの向こう、無音の空間の中で金魚になったトキヤが、金魚鉢の中で恋の歌を歌う。

彼は、金魚に恋をしているという。
そうして俺も、きっと金魚に恋をしている。