一ノ瀬トキヤは少し、おっちょこちょいだ。
 完全無欠のクールビューティー――マスターコースを経てようやくシャイニング事務所への正所属が決まった頃、事務所の定期誌でそう紹介されていた言葉通り、彼は歌も演技も、それから何事にも真面目で努力を怠らないその姿勢も、すべてにおいて非の打ち所がなかった。それを彼は頑なに否定していたけれど、俺の目にはいつだって一ノ瀬トキヤという人間が完璧に見えていたのだ。
 それは、こういう関係になった今も変わらない。
 ……そう、思っていたのだが。

「忘れ物はないか?」
 玄関へと続く狭い廊下、先を行く彼の背を見送りながら尋ねると、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべたまま振り返り笑う。
「今日は大丈夫です。朝早くからすみませんでした。お邪魔しました」
 では、行ってきます。そう言って彼はぱたぱたと慌ただしく部屋を後にした。一ノ瀬は待ち合わせではいつも集合時間よりも早めに来て待っているから、きっと家を出る時も同じように時間に余裕を持って出ているのだろうと思っていたのだが、彼は大概いつも時間ぎりぎりになって慌ただしく出てゆく。だからだろうか。
「……ん?」
 後片付けをして、自分も出掛ける準備をしようかと思いながらリビングに戻ってみると、ローテーブルの上に置き去りになったままの腕時計。
 ああ、まただ。だから忘れ物はないかと尋ねたというのに。携帯を手に取って、たった今部屋から出て行った相手に簡潔なメールを送る。すると、ややあって返事が返って来た。メールの文面は、取りに戻る時間がないので今日仕事が終わったら取りに伺います、という内容。まだ一ノ瀬が出てってから十分も経っていない。時間に余裕を持って出ていれば、戻って来られただろうに。いくら同じ寮で部屋が近いと言っても仕事終わりに疲れた身体を引き摺って俺の部屋に寄るのも楽ではないはずだ。
 こういう遣り取りが、もう何度目だろうか。
 実は、今日も朝早くから俺の部屋に来たのも、以前一ノ瀬が俺の部屋に来た時に忘れていった本を受け取りに来ていたのだ。特になくても困るものではないから、とそのまま俺が預かっていたのだが、どうしても続きが気になってしまって、と彼から本を受け取りたいと連絡があったのが一昨日の夜のことだった。最近はなかなか忙しくて互いの空き時間が合わず、結局、今日の朝、一ノ瀬が仕事に向かう前にうちに寄ることになったのだった。
 とはいえ、ただ本を手渡すのもなんだか味気ない。だから、一緒に朝食はどうかと誘い、少々早めに来てもらって、共に朝食を摂ることになったのだ。
 実は数ヶ月前から一ノ瀬とは恋人として交際していた。世間では付き合い初めのこの頃が一番楽しい時期なのかもしれないが、前述の通りなかなか忙しくて互いの時間を合わせることが難しい状況だった。だから、久しぶりに一ノ瀬とゆっくりとした時間を過ごせて自分も気が緩んでしまったのかもしれない。自分も迂闊だった。もう少ししっかり忘れ物をしていないか確認をすべきだった。
 一ノ瀬と付き合い始めて三ヶ月、距離が近くなれば見えてくるものがある。一ノ瀬はいつも準備は抜かりなく、用意周到なようでいて、意外と少し抜けているところがあった。その度に今まで彼に抱いていた印象と違って驚いたが、彼も普通の人間なのだ、と少し安堵もしたものだ。逆にそういう抜けたところを知る度に愛おしさが募ってゆくぐらいだった。こちらのことを気を張らなくていい相手と思ってくれているのか。一ノ瀬が少しでも自分の側で寛いでくれるならばそれに越したことはない。
 しかし、忘れ物が多いのは困ったことだ。本のようなものならば構わないだろうが、今日忘れたものは腕時計だ。確かに腕時計がなくても大抵の場所には時計があるし、携帯電話でも時間は確認出来る。けれど、ないとないで不便なのが腕時計。一ノ瀬も困っているかもしれない。どこかですれ違ったら渡せるかもしれない、と今日のスケジュールを頭の中で思い出しながら、時計をハンカチに丁寧に包んで、そっと鞄に仕舞い込んだ。

        ◆  ◆  ◆

「そういえば、お前はこの後、一ノ瀬と一緒だったな」
 昼前からの取材で一緒の現場だった神宮寺と休憩がてら遅めの昼食をとりながら、何気なくこの後の仕事の話をしていた時だった。今朝鞄にしまった一ノ瀬の忘れていった腕時計のことを思い出し、神宮寺に声を掛けた。
 年末から二月末まで上演される予定の『劇団シャイニング』と銘打たれた公演は、今シャイニング事務所で有望視されているメンバーを三つのグループに分け、それぞれ違ったジャンルでミュージカルを上演するという企画だ。役者本人をベースにしたあて書きの台本で、役名も役者たちの名前をもじったものになっている。自分以外の公演の詳しい内容はまだあまり分からないが、皆それぞれに似合いの題材で、どのようなかたちに仕上がるのか今から楽しみだ。
「うん、今日はアクション部分の稽古なんだ」
 公開までおよそ二ヶ月。既に舞台に向けて動き出していて、各々のグループのメンバーで顔を合わせることが多くなっていた。神宮寺は一ノ瀬、黒崎先輩、カミュ先輩と四人でスパイ物の舞台を演じるという。その面子を見れば、神宮寺が気に入っている面々ばかりだ。きっと稽古も楽しいのだろう。どこか上機嫌で神宮寺が答える。
「そうか、実は、一ノ瀬がうちに腕時計を忘れていってな、お前から一ノ瀬に渡してやって欲しい」
 ないと困るだろう? と言いながら朝から大事に持ち歩いていた腕時計を鞄から取り出し、神宮寺に見せてやる。神宮寺は他人の持ち物や服装に目敏い奴だから、これが一ノ瀬のものだときっとすぐに分かるはずだ。
「……腕時計? イッチーが今朝ツイッターで呟いてたやつ? お前のうちに忘れていったんだ」
 神宮寺の言葉に頷いて視線を向ければ、何か言いたげな表情で神宮寺が含み笑いをしている。
「ああ、一ノ瀬は、少しおっちょこちょいだからな、よく忘れ物をする」
 困ったものだ、と言葉を続けるが、神宮寺は奥歯に物が挟まったような微妙な表情で首を傾げている。
「まぁ、イッチーも人間だし、たまに抜けたりはするだろうけど、そこまで忘れ物は多くなかったと思うよ?」
「……そうか?」
 再び時計をハンカチに包み直して神宮寺へと差し出すが、どういう訳か、神宮寺は一向に時計を受け取ろうとしない。
「……これはさ、自分で返しなよ。オレから返されたりしたらイッチーもがっかりしちゃうよ」
 オレも八つ当たりされたくないしね、と神宮寺が肩を竦める。
「どういうことだ?」
「分からないの? お前は本当に鈍いね」
 はぁ、と神宮寺が大きな溜め息を吐く。心外だ。本当に意味が分からない。疑問符を浮かべたまま神宮寺を見遣れば、やれやれとでも言いたげな表情をしているのが、更に腹立たしい。
「だからさ、わざと忘れ物して、取りに行くって言ってお前と会う口実作ってるんだろ?」
「そ、そうなのか? ならばいつも慌ただしく出て行くのもそのためか?」
 だから取りに戻る時間がないようにいつもぎりぎりに出て行くのだろうか。
「それは、少しでも長くお前と一緒にいたいからなんじゃないの?」
 イッチーもどうしてこんなヤツに惚れちゃったのかね、可哀想だ、と神宮寺が溜め息まじりに呟いて、話は終わったとばかりに席を立つ。じゃあね、と後ろ手でひらりと手を振り去っていく背中を無言で見送ることしかできなかった。俺の手のひらに残されたままの腕時計が、俄に重さを増したような気がして、俺は暫くそこから動くことが出来なかった。

        ◆  ◆  ◆

 そうして、その夜。
「本当にすみません」
 約束通り一ノ瀬は俺の部屋にやってきていた。
「わざわざ疲れているところ申し訳ないな、俺がそちらに持っていっても良かったのだが」
「いえ、私のミスなのですから、そこまで手間を掛けさせるわけには」
 玄関のドアを開けてすぐの三和土にいる一ノ瀬が申し訳なさそうに小さく笑う。頬がほんのりと赤いのは外が寒かったからだろうか。日中はまださほど寒くはないが、やはり朝晩は少し冷える。
「外は寒かっただろう? 良かったら温かい茶でも飲んでゆかぬか?」
 そう言葉を掛けると一ノ瀬は、では、お言葉に甘えて、と破顔した。家に来る少し前に、これから伺います、というメールを貰っていたから、俺は仕事終わりで疲れているだろう一ノ瀬をもてなすために準備をしていたのだった。それに、昼間に神宮寺が言っていたことが本当ならば、一ノ瀬もそれを望んでくれているはずだ。
 果たして神宮寺の言葉は本当なのだろうか。恋人同士なのだから、わざわざそんな口実がなくたって、好きな時に来ても構わないし、もっとわがままを言ってくれたって良いと思うのだが、一ノ瀬はいつも遠慮がちで、こちらの意向を気に掛けてくれているようだった。
 だが、ふと思う。逆の立場だったとして、自分も連絡もなしに突然一ノ瀬の部屋を訪ねることなどできないと思う。相手の都合を考えてしまうのは、相手が大事だからだ。それに、困らせて、嫌われたくはない。友人の延長線のように始まった関係だからこそ、どうやってその先に進めば良いのか分からない。その先の一歩を踏み出すのを躊躇ってしまう。まだ恋人という距離感を掴めていないのはきっとどちらも同じなのだ。それに気がつかずに、自分のことは棚に上げて相手にばかり求めてしまうのはいけないことだ。好き合って恋人同士として付き合っていても、口にしなければ想いは伝わらない。そんなことわかっているのに。
「ああ、もうこんな時間になってしまったな」
 時計を見れば、一ノ瀬が来てから既に一時間以上が経っていた。いつの間にか一ノ瀬専用となってしまったマグカップに煎れたコーヒーもすっかり冷めてしまっている。
「ああ、本当ですね、あなたといると、つい時間を忘れてしまいます」
 そう言って一ノ瀬が手元のカップに視線を落とした。マグカップにはまだ少しコーヒーが残っている。
 冷えてもなお、ほんのりと香ばしく香るコーヒーは、一ノ瀬が以前、好きだと言っていた銘柄だった。一ノ瀬とこのような関係になるよりもずっと前から、うちに来ることが多かった一ノ瀬のために用意してあるものだ。
 けれど、このコーヒーを自分ひとりきりの時に飲んだことはなかった。本当はあまりコーヒーは好きではない。一ノ瀬が居なければ、ただ苦いだけの褐色の液体だった。
「明日も早いのだろう?」
 そろそろ帰った方が良い、と言外に促してみるも、一ノ瀬は、そうですね、と言いながら円を描くようにマグカップを揺らし、僅かに残ったコーヒーが揺蕩うのをただ眺めている。
「一ノ瀬、本当に大丈夫か?」
 思い返せば、いつも一ノ瀬の方から、帰ります、と言うことはない。いつだって、こちらから幾度か促して、ようやく重い腰を上げるのだ。
「……そうですね、あまり長居をしてはあなたを困らせてしまいますから、そろそろお暇しますね」
 こちらとしては一ノ瀬を早く帰したくて言っている訳ではなくて、同期の中でも一番忙しい一ノ瀬の身を案じてのことなのだが、上手くそれが伝わらないのだ。
 お前を厄介払いしたくてそう言っているのではない、そう伝えたいのに、上手い言葉が出て来ない。なんと言ったらいいものかと考えあぐねているうちに、一ノ瀬は残ったコーヒーをひと口で飲み干して、ごちそうさまでした、と呟いてゆっくりと腰を上げた。
「……忘れ物はないか?」
 この言葉を掛けるのは、もう何度目だろうか。
「大丈夫ですよ」
 そうして一ノ瀬のこの言葉を聞いたのも幾度目だろう。その度に一ノ瀬は一体どんな気持ちでその言葉を返していたのだろうか。玄関へと続く細い廊下の先をゆく一ノ瀬の背を眺めてみたけれど、きっと彼が今何を考えているかなんて、一ノ瀬本人しか知り得ないのだ。それが、少し歯がゆい。もっと、一ノ瀬のことを知りたいのに。
「ああ、一ノ瀬、忘れ物だ」
 実は、一ノ瀬のために準備していたのはコーヒーだけではなかった。
 三和土で靴を履き終わった一ノ瀬に、そう言葉を切り出して、手のひらを握った状態で彼の目の前に拳を差し出す。すると、一ノ瀬は不思議そうな顔をしながらも、俺の拳の下に掬うように手のひらを差し出した。自分の体温で生温くなってしまった小さな金属の細工品を一ノ瀬のほんのりと冷たい手のひらの上に、そっとのせる。 
「これは、」
「この部屋の鍵だ」
 弾かれたように顔を上げた一ノ瀬が目を見開いて驚いた顔をしている。普段あまり見ることがない表情を見るのは少し、楽しい。
「お前は忘れ物が多いからな。それに、そんな口実を作らなくたって、いつでもうちに来ても良いのだぞ?」
「……やっぱり、気がついていましたか?」
 ばつが悪そうな顔をする一ノ瀬に、ゆっくりと頷いてみせる。まさか神宮寺に言われるまで気がつかなかったとは口が裂けても言えない。
「流石に分かりやす過ぎましたよね、」
 白い頬をうっすらと紅色にさせ、一ノ瀬が口許を手のひらで覆う。それが彼が恥ずかしい時の癖だと気がついたのは、もう随分と前になる。俺が一ノ瀬のことを恋愛対象で見るようになるよりももっとずっと前のことかもしれない。それだけ、一ノ瀬のことを見てきたのだ。どうして気がつかなかったのだろう。己の不甲斐なさに申し訳なくなる。きっとこれからは、もっと互いに自分のことを話して、もっと互いを知っていかなければならないのかもしれない。自分が一ノ瀬のことをどれだけ好きなのかも、きっと彼は知らない。もっと、知ってもらわなければ。
 三和土よりも五センチほど高い場所にある上がり框にいるせいで、普段よりも僅かに背が低い一ノ瀬が何か言いたげな表情でこちらを見上げている。
「どうした?」
 そう尋ねれば、彼は少し言いづらそうに口を開いた。
「すみません、やっぱり忘れ物をしていました」
「なんだ?」
 もしかして、またわざと置いていこうとしたものがあるのだろうか。それならばそんなものはもう不要だ。
 リビングに取りに戻るのかと思って身体をどかそうとしたが、一ノ瀬の腕がするりと伸びてきて、思わぬ力で引き寄せられてしまった。一ノ瀬、と言葉を掛けるよりも早く、一ノ瀬の整った綺麗な顔が近づいてきて、言葉は音になる前に彼の唇に吸い込まれて消えた。
「……おやすみなさい」
 また、来ます、と囁くように言って一ノ瀬が小さな笑みを浮かべ、驚いて動けないままでいる俺を残して去っていってしまった。
 辺りには未だ一ノ瀬の飲んでいたブラックのコーヒーの香ばしい残り香が漂っている。ただ苦いだけのコーヒーが、好きになれるかもしれないと、思った。